子どもに対してわれわれ教師は常々、
「成長せよ」
「成長がもっとも重要なことであり、ゴールである」
というような意識を持っている。
しかし、「発達しなくてはいけないか」となると、ちょっと言葉に詰まる。
そう言い切ってしまうと、どの子に対しても「あなたは、今のままではいけない」と言うことになるからだ。

とくに現在の学習状況になじめず、必要な支援を欲している子どもたちの前で、それはないでしょう。つまり、「発達しなさい」と彼ら彼女らに伝えるのも、どうなんだろう、と教師は考えこむことになる。

少なくとも、「発達段階(はったつだんかい)」という言葉は、すぐにも教育界からは消えていく、あるいは古典的なまちがった(そぐわない)使い方の言葉として認知されていくだろうと思います。
つまり、発達というのは、けっして「段階を踏むもの」ではないだろうからです。階段を上るイメージで「発達段階」ということを示しましたが、あれは実際ではない、ということでしょう。ほぼ中教審で発言するような大学教授たちは、すでにそういう認識です。

発達とはなにをさすのか。
そしてわれわれ教師は、発達について、なにを良し、とするのか。

ある課題をこなせるようになった、到達した。
たしかにそれは、うれしいことであるだろう。
しかし同時に、それで本当に良いのか、ということを教師は悩むのです。

階段を上るような「発達」をイメージしているのであれば、人は階段を永遠にのぼりつづけるのだから、という理由が成り立ちます。少なくとも、目の前の一つ、階段をのぼりなさい。はい、次ものぼりさない、といって、上るのは善だ、ということで指導しつづけていく。
教師と言うのはそういう仕事だろう、ということになる。これで17世紀以後、人間はずっとやってきたわけですね。

しかし、それで本当にその子が、これからも一人でずっと階段をのぼれるようになったのか、というと、どうもそういうことにはならないだろう、というのが21世紀の現代社会です。だって、大人だって先が見通せないのですから。大人だって、階段のその先になにがあり、上の方はどうなっているのか自信がない。のぼれのぼれ、と号令をかけ、ただひたすら「上にはいい世界があるだろう」と信じていてよかった時代は終わったのです。まるで雲かカスミがかかったようになっていて、上空が見えないのです。

一番の問題は、のぼることに疲れてしまい、号令をかけるのを大人がやめた瞬間、そこでもう上るのをやめる子がいることでしょう。学ぶ主体が疲れてのぼりたくないのを、無理に上らせているのだとしたら、その意味のなさは誰にだって理解できますね。

さて、発達って何なのか?
もう一度、ふり出しに戻ってきました。

前記事で、「中身はそうでもなく、一人きりの時はけっしてそうではないのにかかわらず、集団の場でコミュニケーションをとる場面においては、学年主任になっている」不思議さについて書きました。

わたしは、孤独に自分のことを振り返る時間においては、ほとんど「主任らしくない」自分自身を見ているのに対して、集団の場では、あたかも「主任である」かのようにふるまうのです。そして現に、私は学年主任として成立しているわけです。実際のコミュニティの構成員は、わたしを学年主任として認めるわけですね。

なぜ、そうなっていられるのか。
それは、学年主任としてふるまう「ステージ」のようなものを用意してもらったからです。
そのことで、私は多くの関係者に助けてもらうようになれた。そして、そこで主任として「ふるまう」ことができた。
そうしたら、あっという間に、成立したのです。

わたしがやったことは、たった一つ。
ちょっと、頭一つ分、背伸びをしたことです。

(↑これが発達)

こう考えると、卒業を目前にした、このクラスの子どもたちにも同じことがいえましょう。
子どもにだって、最適なステージが用意されたら、「頭一つ分、ちょっと背伸び」するのです。
ごく自然に。
その自然さは、「階段上れ!」という世界とはまったく異なります。
自然、というのがもっとも人間の心理にとって、健全なのです。

こうしてみると、発達というのは、段階的にステップアップして到達した、というよりは、やってみたら「ほらできた」という感覚のことなのだろうと思う。私たちはこれまで、既存の「努力➡達成」という矢印ばかりをみてきたのではないか。

クラスの子どもも、一人ひとり全員がアクターとして、このクラスというステージ上(舞台上)で、頭一つ分背伸びをし、さまざまな役を演じたことで、「ほらできた」という感覚を得るのではないか。そして、コミュニティをつくる重要な一員として力をもった、全員に認められる、という意味付けは、舞台ストーリーの後半で、社会全体で見出すか、あるいはその過程で、あとから気がつくものではないだろうか。

発達に必要なのは階段(ステップ)ではなく、舞台(ステージ)だったとするならば、矢印というものはそこには存在しない。上手から下手へ、下手から上手へ、舞台なら自由自在にとびまわることができる。

これが幸福だったのだ、という幸福そのものを見出す作業を、クラスというコミュニティ全体がコミュニティの中に、見つけ出していく。それこそが学級が行うべき仕事なのでしょう。
コミュニティの活動のあとに、学習は生まれてくるのです。

3月の現在、わたしたちはどこへたどりついたのか、
わたしたちのコミュニティの中、幸福はどこにあったのか
わたしたちは、なにを果実として受け取ればいいのか


クラスの子どもたち全員といっしょに、その意味を見出すのが、6年生担任の仕事といえそうです。

ゴーギャン