授業の流れについては、上記のような過去記事がいくつかありますので、みていただくことができます。

なぜ殺さなかったか、ということに焦点を絞って、2時間の大討論を繰り広げた。
みんな、言いたい放題。
持論を述べる姿も堂々としてきたが、あいにくそれをまったく聞いていない子もいて、かなりカオスである。このあたりの交通整理が、もっとうまくできたらなあ、というのは私の教師としての反省だ。ずっと以前からの。

つい、教室の真ん中で、腕組みをして黙ってしまうんだよなあ。みんなの話にうなずきながら・・・。しかしそれでは、強力に論を整理することができない。あっちへふらふら、こっちへふらふら、という話し合いだと、子どもが疲れてしまう。

面白いのは、「なぜクエを殺さなかったのか」という問いに対して、
「本当に分からない・・・殺せばいいのに」という子もいたことだ。
その子は、「ぼくは太一の行動に反対だ。殺すべきだった」という説を最後まで曲げなかった。
この意見はかなり討論の場においては有効で、多くの子の考えを深めた。
なぜ、という問いよりも、一時は「太一の行動に賛成か反対か」という討論も出現した。
しかしそのおかげで、
「クエを殺すべきだ、というのは、途中まで本当に太一が心で思っていたことだろう」
ということを、その後、クラスの大半の子が考えるようになった。ぎりぎりまで、太一は本気でクエをねらったのである。

さて、それにしても、太一は最終的に、クエを殺さなかった。
これはなぜだろうか。

多くの子の意見は、
「クエが父親に見えたからだ」
というものだ。

しかし、それだと辻褄が合わない。
太一は、もっと以前に、モリを足の方にどけるのである。
ふっとほほえむ。そのとき、すでに殺意はないのである。
太一がクエを父親だとみる、その行為よりも前から、たしかにあったはずの殺意が消えている。
だから、最初にモリを足の方にどけたのはなぜか、というところに、問題の焦点はうつっているのである。

そこまで考えてから、再度、ノートにまとめてもらった。
言いたいことをすべてノート記述にぶつける気で、とうながすと、みんな猛烈な勢いで書き始めた。
クエ

【Aさんの考え】
太一がクエを殺さなかったのは、「このクエを殺すことは、自分のために殺すのだ」ということに気づいたからだと思う。
 鯛を20匹取るという行動は、漁師としての行動で、太一だけでなく、他の人のためにもなる。だから鯛を20匹取るという行動は、はっきりいえば、人が生きるためだ。
 しかし、太一がクエを殺すことは、太一のお父さんの敵討ちのために殺すため、太一自身のために命を奪うことになる。
 教科書の221ページを見てほしい。与吉じいさが「千匹に一匹でいいんだ。千匹いるうち一匹を釣れば、ずっとこの海で生きていけるよ。」という言葉は、漁師として命を奪うことは仕方ないが、それ以外で無駄に命を奪うことはしてはいけないという教えだ。この言葉が太一に「このクエを殺すことは、自分のためだけに殺す」ということに気づかせたと思う。

【Bさんの考え】
わたしは、本当は太一は、クエを殺したかったのだと思う。それでも太一はクエを殺さなかった。それは、与吉じいさの言葉を思い出したからだと思う。
与吉じいさは、「千匹に一匹でいいんだ。千匹いるうち一匹を釣れば、ずっとこの海で生きていけるよ」といった。与吉じいさは無駄に釣らなくても自分が食べる分と少し売る分だけ釣れば生きていけると考えていたのだ。
それに対して、クエを殺そうとしたときの太一は生きていくために釣るのではなくおとうの敵討ちのためにクエを殺そうとした。そのとき、与吉じいさの言葉を思い出して命を無駄にしてはいけないと殺すのをやめたのだ。

【Cさんの考え】
殺さなかったのは、与吉じいさ(師匠)の教えを破ることになるからだ。
与吉じいさの教えは、「千びきに一ぴきをつる」「海の命をもらって自分たちは生きているから海に感謝して命を無駄にしてはだめ」という教えだ。
太一はクエを見たとき、「仇」としてクエを殺そうとした。それは命を無駄にする行為で、自分の勝手で命を奪う行為になる。それは教えを破ることなのだ。
それに、太一は教えの通り「殺したいから殺す」「自分のために殺す」では殺してはいけないと思っている。だから、最初は「自分のために殺す」をしようとしたけど、クエの目が、殺されたがっているような目に見えてから、教えを思い出して思いとどまった。立松和平さんが、クエの目を「殺されたがっている」ように書いたのは、太一が自分の欲に負けてしまいそうになる誘惑を書いたのだと思う。でも、そんなはずはない。殺されたがっている魚など、この世にはいない。でも、ついそう見えてしまうほどに、人間は欲望に負けやすいのだ。太一はしかしそこで自分のおかしな欲望に気づくことができた。
他の人がクエの目を見たら「睨んでいる」「戦おうとしている」などと見えるのがふつうだろう。でもそれを、「殺されたがっている」と見てしまうくらいの、奇妙な「見え方」。それがあまりにもおかしすぎると、まだ太一は気づくことができた。太一は人として、おかしくなりすぎてはいなかったのだ。
だから、太一はクエを殺さなかった。

【Dさんの考え】
理由は、クエを取ろうとするのは、太一の気持ちだけだったからだと思います。
なぜかというと、与吉じいさは千匹に一匹、飢えないようにとるだけなのに、太一の気持ちは「この魚をとらなければ、本当の一人前の漁師にはなれないのだ」というように、太一だけのためだったので、それで命をとるのは間違っていることだと気づいたからだと考えます。
だから、太一はクエを殺さなかったのだと思います。

【Eさんの考え】
立派な漁師になるため、与吉じいさが教えてくれたように、クエを殺さなかったのだと思う。
与吉じいさの言葉「千匹に一匹でいいんだ、千匹居るうち一匹を釣ればずっとこの海でいきていけるよ」の言葉が鍵になる。与吉じいさは漁が目的、太一はクエを殺す事が目的。太一は与吉じいさと目的が違うのだ。そのことに、太一は気付いたのだと思う。
クエを殺さなくても立派な漁師になれる事、クエを殺すのは与じいさが言う立派な漁師になれない事も、気づいている。だから、私は太一がクエを殺さなかったと考える。

と、ここまでがノート記述である。

わたしが特にするどいと感じたのは、Cさんだ。
魚が自分から殺されたがっているなんて、見えるわけがない。
その奇妙な、病的な、おかしな見え方。
そのことに、太一自身が気づくことができた。
「おれは、なんのためにこの魚を殺そうとしているのか」
そこで、太一はハッとする。

魚を殺すには、理由が要る。
太一はそう考えている。
理由もなく魚を殺すのは、殺人鬼ならぬ『殺魚鬼』だ。
与吉じいさは、鬼にならぬように、太一に語りかける。「千匹に一匹でいいのだ」と。

太一は、「おれが殺したいから殺す」という理由で殺しはしない。
おれが殺したいから殺す、というのも、鬼なのだ。
太一は、鬼になることを、すんでのところで回避できた。
「殺す」と決めてから、今までの長い日々。
高まっていた殺意。
いよいよ、となった瞬間。
まるで電撃のように、太一は「殺すべきでない」という直感に打たれるのだ。
(↑この一文、どうも鬼滅をイメージする。「海の命」は元祖鬼滅!?)

Cさんは、そんなようなことを、自分の文章の解説で、みんなに言ってくれた。
きょとんとして意味がわからない子もいたと思うが、深くうなずいている子も多数いた。

ここまで深く読み取ることができたのも、クラスの子たちの活発な意見が助けになったろう。
Cさんも、単独一人ではここまで追究できなかったにちがいない。