好きだ、という文字は、誤解を生むので使えない。
とくに大人が子どもに対して「好き」なんていう言葉を使っては。

だいたい、「好き」という言葉には、いろんな意味が含まれ過ぎている。
ナターシャ・キンスキーがおしゃれなカウンターでロブ・ロウに向かって耳元でささやく「好き」と、
「ひざこぞう」を怪我してバンソーコーを貼っている小学2年生がグッピー・ラムネを食いながら「このラムネ好き~」というのと、同じ意味であるはずがない。

しかし、あえてこのクラスの全員が好きという以外になかなか他に良い言葉が見つからない。
さらにいうなら、人が人を好きだというのは、これはもうそれ以外にありようのないほどに、当たり前の感情なのでありましょう。また、この場合の「好き」は、もう古来より言い古されていることであるように、ごく人類としても当たり前のように「嫌いの対句ではない」のでしょうな。

そういうことなので、この子たちがあと20数日で卒業だと思うと、またある種の特別な感情が湧き起こってきます。たしかに、新たな、立派な道へ成長していっている、というしずかな喜びもあるのですが、もう日常会えなくなるよなあ、というちょっとした感傷がこころの中を全面的に塗りつぶしてしまうのです。

その感傷をすこし確認した後に、結局さいごにこの子たちに対して思うのは、

ああ、好きだなあ、という感じであります。

もっといい言葉、ふさわしい言葉があればいいのに、と思うけど、まあ単純に、「好き」なんでしょう。人類として、好きなんですわ。

残りの日数で、やるべきことも残してあり、いろいろと計画もしています。
また、これだけはやりたい、と2年前に計画した授業。これらを、きちんと進められてきた、というふりかえりができること。最近はそれがうれしい。

1)自分が好きなものを そうは思わないと言われた時に腹が立つかどうか。
2)きらいなものかどうか
3)羊毛セーターのふるさとを考える
4)電球が光るかどうか~ホントはどうかな~
5)今から北海道に行けますか

これまで考えたことがない、という問いの数々。
おもしろかった、という感想が次の日の日記にたくさん書かれた実践。
2年間、その気でやって、進めてこれた。
ありがたいと思う。

このクラスでしてもらったことを100個書く、というのも、無理ーと言いながらやってくれた。
このクラスでしてあげたことを100個書く、というのも。(←こっちの方が少なかった)

あと給食の回数、20数回。

コロナで無言の給食だけど、顔をみながらおいしく食べよう。

おひなさま