「対比」を使って、海の命の学習を進めている。
「海の命」と何を比較したか。
5年生で学習した「大造じいさんとがん」だ。
既習事項と比較することで、どんな教材にも挑戦していける、という自信を持つためである。
これまでの力を生かすことで、困難に立ち向かえる、という自信は、人生にとって必要だ。

比較

大造じいさんは、残雪が仲間を救ったばかりか、最期のときを感じて威厳を崩さずにいることに感服し、そのまま残雪を殺さず、堂々と戦うことを願った。
だから、直前まで本当に殺そうとしていた。

「もしはやぶさが現れなかったら、殺しただろうか」

そのままきっとオトリを呼び戻して向きを変えさせ、残雪を撃っただろう、というのが児童の大半の見方である。

対して、太一の方はどうか。

残雪をしとめる気でいっぱいだった大造じいさんの情景描写には、真っ赤な太陽が(あかつき)強烈な光をさしてくるイメージが使われている。
これは、いわゆる「大造じいさん目線」である。

〇〇目線、というキーワードについては、5年生のときの「なまえつけてよ」で既習済みだ。



「なまえつけてよ」は、地の文にある表現もみな、主人公の春花の目線で書かれていた。
勇太が、プイッと横を向く、と地の文に書かれているけれども、勇太はものすごくやさしい子で、実際にはそうではなく、春花に迷惑をかけないための所作だったわけで、プイッと見えたのは、あくまでも期待していた春花のざんねんな気持ちが『そういうふうに見た』わけで・・・。

そこから、物語文の地の文にも、主人公の目線がふくまれている、というのを習っていた。

では、太一はどうだったか。
どうみても、クエが戦闘的に見えないのである。
敵に見えない。
おとなしく、じっと「殺されたい」と見えるほどに、やさしい目つきで太一を見るのである。

これは、実際にクエがそうであった、というではなく、太一がクエをそう見ているから、クエがやさしい目つきに思えるのである。

だとすると、大造じいさんと太一は、決定的にちがうことがある。

じいさん⇒戦う意識
太一⇒1000匹に1匹でいい この海でずっと生きていきたい


太一の意識がこうやってどんどんと浮かび上がってきた。
太一には、「敵」「味方」の区別すら、もうすでになかったのである。