大谷翔平や藤井聡太になれない人たちの方が圧倒的に多い。
教室にはサッカーの才能を持つ子もいるし、野球の才能を持つ子もいる。
空手やダンスに才能を持つ子もいる。
しかし、あこがれ、という気持ち以外に、あきらめ、という感情を持つことだってある。
もうぼくは、レギュラーにもなれないんだ、とか。
そもそも向いていなかったのでは、とか。
いつも力になれない、チームのためになれない、とか。
うまくできない、才能がない、あの子に勝てない、とか。

こういう相談をする子に、どう声をかけたらいいだろう、といつも悩む。
新間草海も、悩むときは悩みます。

・・・

たしかに、何かをはじめたころは、覚えるのが楽しくて仕方がない。
新しいことをたくさん覚える。
道具も新品を買ってもらう。
みんながあれこれやっているのを不思議に思ってみているときと比べたら、
「あ、なるほど、そのためにやってんだな」
と合点していくときの成長は、自分でもよくわかるし実感ができる。
先輩を見習って、自分でも工夫をしていく時代になると、さらに楽しい。
先輩のまねができるのも楽しいが、自分はこうする、こうしたい、というものを見つけたら、もう時間がいくらあっても足りないくらい、熱中できる。

しかし、ある時期をすぎて、なんだか地面が平らに見えるときがくる。
今までは、この坂の上に、この丘の向こうに、なにかあるだろうと思ってやっていく。
途中まではもう上り坂を登っていく感じしかしないから、夢中になって登っていくわけだ。
それが、どうも見晴らしがよくなってしまって、向こうのほうにもとくに何かがあるわけではない感じがしてくるときがある。

このまま歩いて行っても、自分の歩幅でいけば、このくらいだろうなあ、という良くない予感もしてくる。どうにも自分の歩幅が、わかってしまった、という感覚だろうか。あいつほど早く行けない、あいつほど遠くまでいけないだろう、とわかってしまう。そうなると、いくら足を運んでいても、自分が前に進んでいるかわからない、という状態になってしまう。

そうなったときに、「自分に合ったものって何だろうか、自分は何と合うんだろうか」と考えるようになるのかもしれない。世の中でこれが良い、とされるものを求めるのではなく、求めるものが変わっていく。世間がいうものを求めるのではなく、自分と合うものを。

今教室にいる子で、すでに悩み始めている子がいる。
ソフトテニスをつづけるべきか、悩んでいる。
大人だよなあ、と思う。
自分が小学生のころなんて、めざすものもなければ、あきらめるものもない、まだ何の土俵にも立っていなかった。

あのとき、あのころ、ラジカセが家にあったのだから、古今亭志ん生だって桂文楽だって聞けただろうと思う。小学校4年生のころから、毎晩志ん生の「火焔太鼓」のカセットテープを聴いて育っていたら、わたしも夢の舞台に立てたかもしれない。笑点のレギュラーにもなれたかもしれない。
しかし、人生は一度きりだ。後悔はしていない。

大谷翔平や藤井聡太になれない人たちの方が圧倒的に多い。
自分はなにものかに、「なれなかった」と思う人の方がたくさんいるのが、この世の中だ。
ソフトテニスで悩んでいる子は、今、あれこれと考えている。
てっぺんに立つことだけに価値があるのではない。
もしかすると、MVPをとるであろう大谷翔平クンは、ホームランを量産したから価値があるのでもないかもしれない。それはスポットライトの当て方しだいだ。見る人によって、価値は何種類にも分けられる。大谷選手のどこに価値があるのか、何に価値があるのはは、見る人によって異なる。
また、彼には世界中のマスコミからスポットライトを浴びているからまぶしく見えるけれど、もしかしたらどの選手にも、彼のようなスポットライトが当たった瞬間、どの選手も同じように輝いて見えるのかもしれない。

「大谷みたいになれないだろうから、野球を辞めます」

という小学生がいたら、彼には世間のスポットライトが集中して当たっているからまぶしく思えるのだよ、でもだれにだって、スポットライトを当てたら、みんなものすごく輝いて見える、と言いたい。きみだって、なにかに興味を持って、生き生きと行動していたら、それだけで大谷のように輝いているんだよ、とね。

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