室町幕府まででいったん、テスト。
室町時代は義満や義政などの政治のあと、文化の勉強が一段落。前回、雪舟の「秋冬山水図」を美術の鑑賞風に学んで終わりとした。
いよいよ戦国時代に入ります。

戦国時代の最初は、武田信玄と上杉謙信。
この2名を学ぶ意義は、戦国の雰囲気を知ってもらうためともう一つ、武田信玄が土木の天才であったことを知るためだ。

武田信玄が率いる甲斐の武士は、実は農業土木の天才である。川の流れまで変えてしまう。入り組んだ丘陵地帯や小さな谷、盆地など、くまなく水田にしたのは、この農業土木の天才たちがいたからでありましょう。なにせ、平野と違って水をひくのに手間がかかる。水をせき止めること、小さな流れをいくつもつくること、意図的にあふれさせることなど、水のコントロールをしたいのであれば、石や岩や材木を駆使して、いわゆる土木工事をせねばならない。平野でも工事はしただろうが、なにせ難易度がちがう。彼らは急流を制したのである。

このあたりが、広大な平野で豊かな川にめぐまれた愛知や静岡の農業者とはちがうところ。
東海地方では発展しなかった農業土木が、山梨や長野では発達したのには、わけがある。

こうした「山の国ならではの知恵」は、信玄に多大な恩恵をもたらした。
なぜなら、このころ、日本中の山から「金」や「銀」が見つかったからであります。
全国の山を制した「山師」たちは、甲斐の人間たちであった。山の中でトンネルを掘れる甲斐の人間が、全国の金山をみつけていったのです。トンネルを掘ると、黒四(くろよん)ダムのように水が出るときもある。だから、そもそも土木工事ができないと、鉱山採掘のトンネルは掘れないのですね。甲斐の人間はそれができた。

信玄は長生きすればよかったのにねえ。豊臣秀吉や家康は、そうして信玄たちが見つけた金山を、あとになってぶんどっていっただけのことですね。

のちに徳川幕府の巨大な財源となる佐渡金山も、すでにこのころから「とれる」場所だと発見はされていた。ただしまだ深くは掘られていなかった。いよいよその莫大な埋蔵量が知られるのは、天下分け目の関ヶ原の合戦のころだ。当時全世界にあった金の、その半分ほどの埋蔵量があると見込まれた。ここを徳川家が押さえた、というのだ。関ヶ原までにその情報を知ることのできた武将は、だれしも徳川側についた。
石田三成は、それを知らなかった。西軍方に味方した大名のほとんどが、知らなかったと思われる。

ただ、関が原に集結したときに、その噂を知らされた武将もいる。
動揺しただろうねえ。それだけの金があれば、天下が取れるのはわかりすぎるくらい簡単なことだからだ。こりゃ、次は家康の時代だな、と確信したはず。

さて、子どもたちはこれらを学んだあと、いよいよ織田信長の学習に入る。

佐渡金山