1949年に刊行したイギリスの作家ジョージ・オーウェルのディストピアSF小説。
それが「1984年」だ。
これを教材にできないかと考えている。
SDGsを学んでいくうえでの大切な視点を、子どもたちが学べると思うからだ。

物語の中は、特別な世界だ。
この世界の市民は常に「テレスクリーン」と呼ばれる双方向テレビジョン、さらには町なかに仕掛けられたマイクによって屋内・屋外を問わず、ほぼすべての行動が当局によって監視されている。

これは子どもたち自身が感じ始めていることと、非常にリンクする。
たとえば、学校で使うipadは、すべて検索の履歴や表示の履歴が教育委員会のサーバーに残っている、と聞いて、
「え?これみんな親にばれるの?」とTくんが不安な顔つきになったのもつい最近ことだ。
Tくんはそれ以後、ipadでゲームの検索をするのをあきらめた。
いわば、実体験があるから、「当局によって監視」されているというのは、よくわかる。いや、これまでのどの時代の子どもたちよりも、このことの意味はものすごく肌で実感できるのだと思う。
つまり、ようやく、時代が追い付いてきたのだ。この「1984年」というSF小説を教材とする、もっともふさわしい時代になったというわけ。

1984-Big-Brother
小説では、主人公ウィンストン・スミスは、真理省の下級役人として日々歴史記録の改竄(かいざん)作業を行う。それが彼の仕事業務なのだ。
改ざん、ということの意味について、小学生の子には今一つぴんとこないだろうが、中学生以上なら理解できるだろう。
つまり、1984年は「・・・ということになっている」という建前が唯一の判断のもとになる世界であり、けっして【合理的な事実】によって何かを判断するのではないのである。

さて、この1984年の世界については、もっとも大切な「嘘とはなにか」が、SDGsにはもっとも大事になってくる。具体的には、SDGsの数々の目標を達成するために、どうすれば良いのか、という点について様々な考えや視点があるが、なかには合理的で実際のものではなく、虚構や偽りがまぎれこんでいるかもしれない。ここは重要なポイントだ。

たとえば、プラスチックではない、紙ののストローを使っているからわたしの消費行動は善である、という論理はどうだろう。ストローを植物繊維でつくる紙製のものに替えたら、その人の行動は残りも含めてすべて〇(まる)かというと、そうとは限らない。しかし、「わたしはこんなに気を付けている」(だから他のことは多少どうだっていい)という免罪符になってしまうのではないか、という点だ。
これが企業規模になると、もっと大きな話になる。庭に草木を植え、社員がマイカー通勤をしないからエコに取り組んでいるのだとしても、当の企業が地下水を汚染したり必要以上に汲み上げたりしているのなら、SDGsに資しているとはいいがたい。

そういう意味で、SDGsには厳しい「内省の目線」が必要であり、大きくは前進することが難しくても、一人ひとりが自然や社会に対して真摯に向きあうことが大事なのだ。そして、人として『お天道さま』に恥じない行動をとろうとするることが重要なのである。それは決して、「見た目」をとりつくろう精神では達成できない。周囲にうしろ指をさされるからやるとか、悪い評判がたつのを防ぐため、というのではだめだ。「わたしはとりくんでいる」ということにしておこう、というのでは不純である。形や見た目、体裁をととのえる目的ではSDGsは成り立たないのだ。「ということにしておく」という建前では、意味がない。あくまでも、合理的・実際的に、事実として目標達成に近づくのでなければ。

そのことを小学生が学ぶために、SF小説を授業の教材に持ってくるのは、いささか飛躍しすぎだという人もいるだろう。しかし、事実よりも「・・・ということになっている」ということにする、という欺瞞が、この小説ほどにわかりやすく示されているものもないと思われるため、これを選ぶしかないのが現実だ。

他に、身近な事例があればそれを教材にしてもいいのだが・・・。

最期に、1984年の世界でもっとも有名な言葉を紹介しよう。
この小説の中では、町中に党のスローガンが掲示されている。
戦争は平和である (WAR IS PEACE)
自由は屈従である (FREEDOM IS SLAVERY)
無知は力である (IGNORANCE IS STRENGTH)

人々は、この矛盾した言葉を何度も頭に叩き込むことで、違和感をなくしていく。
当初はふつうに「おかしいな?」とか「それは筋が通らない」などと思っていても、どんどんと教育されていき、しだいに「感覚がマヒしていく」のだ。

「WAR IS PEACE」を連呼するうちに、麻痺していく言語感覚。
これらは、二重思考、と呼ばれる、思考コントロールの技術だ。
アクセルとブレーキを同時に踏むかのような、本来は矛盾した言葉を繰り返すことで、人の感覚は麻痺していく。
つじつまがあわなくても、しだいに平気になっていく、困惑した心理。
筋を通すのが本当だ、という感覚がなくなっていき、「どうでもいいや」となっていく思考放棄。

1984年の世界では、この「言語感覚の麻痺」こそが、みんなが落ち着いて暮らせるすばらしい社会にするための、最初の政策だ、ということになっている。

政府が、人々の「まっとうな言語感覚」を放棄させるため、あえて意図的に仕組んだ言葉とロジックの破綻(はたん)この作戦がじわじわと人々の心に作用し、ついに1984年には、主人公のスミスは、心を破壊させてしまう。スミスは愛情省の「101号室」で自分の信念を放棄し、党の思想を受け入れ、処刑される日を想って心から党を愛するのであった。

きちんと筋を通したい、と思う子どもが育つか、あるいは
筋など通さなくても、どうでもいい、と考える子が将来の日本をつくるか。
この「1984年」こそが、教科書に載るべきだと思うネ。なんたって、今年の大学共通テストの世界史Bにこの小説が出題されてるんすからナ・・・。

世界史B
1984年