今日、たまたま子どもが学校に来た。
今の勤務校には金管バンドの活動があり、体育館で練習をする。
夏の暑い時間に、蒸している体育館。巨大な扇風機があるので、それを回しながら練習をしている。
先生も大変だが、子どもも大変だ。
しかし、大会(録音参加)が近づいているので、みんな真剣な表情だ。
こっちは今日は午後に研修も控えているので、朝からあれこれと職員室で書類を作っていた。
すると、ちょうどお昼前に練習が終わって、子どもが
「先生いますかー」
と現れた。
児童会で使うプリントの予備が欲しい、というので印刷してやっている間に、なんとなく話をしていると、
「ぜんぜん宿題進んでない」
と言う。
まあ、まだ夏休みははじまったばかり。
「あ、そう」
と軽く受け流していると、その子は
「あー、たぶん今年も最後の3日くらいになって苦しむんだろうなあ」
と冗談っぽく言って笑った。
「エンジンがかかるのが遅いの」
と、自分で言っている。
「あ、そう。(金管バンドの)練習がない日の午前中とか、なにをしてるの?」
と私が尋ねると、
「えー、もうさっそくゲームするかー、それか、だらだらしてるー」
「朝からゲーム?」
「ああ、あと、オリンピック見てるよ」
わたしもそうだったから、何も言えない。
宿題のとりかかりは遅い方だった。
大学の心理学の講義で、「締め切り効果」という言葉を習ったとき、そんなものは小学生の頃から、とっくのとうに気づいてたな、と思ったくらいだ。締め切りの直前に、魔法のように集中力がUPし、ブーストがかかる。信じられないスピードで、作業が片付いていくのである。
さて、それはそれで良いも悪いもない気がするが、いささか博打のような感じもする。
そこで、大人になって仕事をするようになり、さすがに「締め切り効果でブースト」ばかりを目論んでもいられなくなった。
仕事をするようになって思ったのは、
「仕事って締め切りもなにも、ひたすら続いているし、エンドレスなんだな」
ということ。
たしかに、一区切り、というのはある。要するに、目の前に「今日の仕事」とか「今月の仕事」というのがある。わかりやすく言えば。
しかし、その実態は、実は仕事というのは、エンドレスに続いているのである。生きている限り。
イメージとしては、牛舎の前のそうじが該当する。
いくらほうきで掃いても、敷料(しきりょう=畜舎 の床に敷いて、家畜を保護したり、糞尿を吸収させるためのもの)は常に、牛舎の床から通路にはみ出てくる。風にふかれたら、そこら中におが粉は舞っているのである。竹ぼうきで掃いても掃いても、あとからあとから風が吹くために、この仕事はエンドレスである。
この仕事に、締め切り効果、なーんてものは、ないのだ。
わたしは子どもの頃から、「締め切り効果」を最終兵器にして、日常をやりくりしてきたために、牛舎の前をきれいに掃除する、などというような仕事を目の前にすると、なんとも苦痛であった。だれにも頼まれないし、やってもやらなくてもよく、世界の誰からも「締め切り日」を要求されなかったからである。
要するに、「締め切り効果」というのは、それをしないとやばい、という心理的なものがないと、うまく働かないのであります。そして、世の中というのはそういうことばかりではなく、どちらかというと「締め切り」などがない仕事の方が、多いのです。自分でそれらを決めない限り。
夏休みの宿題に悩むその子は、自分で締め切り日を設定する、ということはしないのだろうか。
わたしはそのことを思ったために、こう提案してみた。
「宿題をやる気にならないのは、8月の終わりが締め切りだと思っているからでしょう。7月の終わりが締め切りだ、というふうに、自分で決めたらどう?」
我ながら良い提案だと思ったのだが、これはすぐに却下された。
「えー?だって夏休みなんだもん、そんなふうに思い込むのなんて、無理!」
そして、
「それに、第一、まだ宿題がランドセルに入ったままだもん!」
失敗である。
締め切りの前倒し作戦は、失敗に終わった。
では、どうするか。
🔴やらないと、と思うことがあるときの対処法
さて、わたしがこの世でしばらくの間(あいだ)生きてきて、なにかやらなくてはならないことがあり、しかしなかなかとりかかる気持ちが湧いてこないときの、たった一つの方法は、実はこの世の多くの人が実は実践しているだろうが、以下の方法であります。
脳裏にすぐに、母親の声で
「そんなすぐにやめてしまうなんてダメ!」
とか
「やったうちに入らないよ!」
とか
「最後までやらないのは、本気だしてない証拠!」
とか、再生される人はかなり洗脳されていますが、早急に親離れしていただき、
「ちょっとだけ準備が進んだな」
と満足することが秘訣です。この場合は。
たとえば宿題がまだランドセルにつっこんだままになっている場合は、とりあえず、そこから取り出して、机の上に置いてみる。
それが「準備」ということです。
それだけでもよい。
次の日、目の前に現れた宿題をみて、ここからここまでやるんだな、とか、パラパラとめくってみる。それだけでもいい。それも「準備」だ。
その次は、筆箱を取り出して、えんぴつをけずってみる。また、夏休み帳の最初のページを開いておく、あるいは、机の周囲を片付けて、きれいにしておく。それだけ。
つまり、ちょっとだけ準備をやって、ちょっと間を置く。
だから、「気持ちを発酵させる」。
その発酵をうながすのが、「ほんの、ちょいとした準備」なのです。
ランドセルを開けるだけでいい。
そこから夏休み帳をとりだすだけでいい。
えんぴつを削るだけでいい。
そして、「ぼーっ」とする。
「これ、やらなきゃなあ。今やれば楽だよなあ。やっておきたいよなあ」と、ぼーっと静かに考えながら、自分の気持ちが素直になっていくのを見守るのです。そのくらいの落ち着いた、ピュアな心持ちです。決して、追い込むのではなく・・・。
ふと、「よーし、やってみるか」となる瞬間を待つのです。
やらないと死ぬ、とか、やらないと〇〇さんにどう思われるか、とか、余計なことは考えない。それは実力を削ぐ思考で、大リーグの大谷選手のようにはなれません。大谷選手は「打たなければ恥だ、ヒィ」とか「ホームランを打たないと死ぬ(過呼吸)」とか思っていないでしょうね。
気持ちがうまく発酵し、パンを焼く前のいい生地のようにふくらんでくると、自然とパワーが生まれてきます。そして、純粋にやりたくなる。やれるぞ、という自信も同時に、どこからかやってきます。これは断言してもいい。大丈夫、ふと、「やってみよっかな」という気持ちになる瞬間がやってきますから。
そこで、私はぜひ、世の中の小学生のみなさんに、お伝えしたい。
まず、ランドセルから出しなさい!(←キレ気味)
夏やすみ帳を!!(←絶叫)
話はそこからだ!!(←白目)
今の勤務校には金管バンドの活動があり、体育館で練習をする。
夏の暑い時間に、蒸している体育館。巨大な扇風機があるので、それを回しながら練習をしている。
先生も大変だが、子どもも大変だ。
しかし、大会(録音参加)が近づいているので、みんな真剣な表情だ。
こっちは今日は午後に研修も控えているので、朝からあれこれと職員室で書類を作っていた。
すると、ちょうどお昼前に練習が終わって、子どもが
「先生いますかー」
と現れた。
児童会で使うプリントの予備が欲しい、というので印刷してやっている間に、なんとなく話をしていると、
「ぜんぜん宿題進んでない」
と言う。
まあ、まだ夏休みははじまったばかり。
「あ、そう」
と軽く受け流していると、その子は
「あー、たぶん今年も最後の3日くらいになって苦しむんだろうなあ」
と冗談っぽく言って笑った。
「エンジンがかかるのが遅いの」
と、自分で言っている。
「あ、そう。(金管バンドの)練習がない日の午前中とか、なにをしてるの?」
と私が尋ねると、
「えー、もうさっそくゲームするかー、それか、だらだらしてるー」
「朝からゲーム?」
「ああ、あと、オリンピック見てるよ」
わたしもそうだったから、何も言えない。
宿題のとりかかりは遅い方だった。
大学の心理学の講義で、「締め切り効果」という言葉を習ったとき、そんなものは小学生の頃から、とっくのとうに気づいてたな、と思ったくらいだ。締め切りの直前に、魔法のように集中力がUPし、ブーストがかかる。信じられないスピードで、作業が片付いていくのである。
さて、それはそれで良いも悪いもない気がするが、いささか博打のような感じもする。
そこで、大人になって仕事をするようになり、さすがに「締め切り効果でブースト」ばかりを目論んでもいられなくなった。
仕事をするようになって思ったのは、
「仕事って締め切りもなにも、ひたすら続いているし、エンドレスなんだな」
ということ。
たしかに、一区切り、というのはある。要するに、目の前に「今日の仕事」とか「今月の仕事」というのがある。わかりやすく言えば。
しかし、その実態は、実は仕事というのは、エンドレスに続いているのである。生きている限り。
イメージとしては、牛舎の前のそうじが該当する。
いくらほうきで掃いても、敷料(しきりょう=畜舎 の床に敷いて、家畜を保護したり、糞尿を吸収させるためのもの)は常に、牛舎の床から通路にはみ出てくる。風にふかれたら、そこら中におが粉は舞っているのである。竹ぼうきで掃いても掃いても、あとからあとから風が吹くために、この仕事はエンドレスである。
この仕事に、締め切り効果、なーんてものは、ないのだ。
わたしは子どもの頃から、「締め切り効果」を最終兵器にして、日常をやりくりしてきたために、牛舎の前をきれいに掃除する、などというような仕事を目の前にすると、なんとも苦痛であった。だれにも頼まれないし、やってもやらなくてもよく、世界の誰からも「締め切り日」を要求されなかったからである。
要するに、「締め切り効果」というのは、それをしないとやばい、という心理的なものがないと、うまく働かないのであります。そして、世の中というのはそういうことばかりではなく、どちらかというと「締め切り」などがない仕事の方が、多いのです。自分でそれらを決めない限り。
夏休みの宿題に悩むその子は、自分で締め切り日を設定する、ということはしないのだろうか。
わたしはそのことを思ったために、こう提案してみた。
「宿題をやる気にならないのは、8月の終わりが締め切りだと思っているからでしょう。7月の終わりが締め切りだ、というふうに、自分で決めたらどう?」
我ながら良い提案だと思ったのだが、これはすぐに却下された。
「えー?だって夏休みなんだもん、そんなふうに思い込むのなんて、無理!」
そして、
「それに、第一、まだ宿題がランドセルに入ったままだもん!」
失敗である。
締め切りの前倒し作戦は、失敗に終わった。
では、どうするか。
🔴やらないと、と思うことがあるときの対処法
さて、わたしがこの世でしばらくの間(あいだ)生きてきて、なにかやらなくてはならないことがあり、しかしなかなかとりかかる気持ちが湧いてこないときの、たった一つの方法は、実はこの世の多くの人が実は実践しているだろうが、以下の方法であります。
ちょっとだけ「準備」をやってみるこの方法は、本来やるべきことの「準備」しかしないのですが、ちょっとだけ、それも準備しかやらない自分を責めない、というのがポイント。
脳裏にすぐに、母親の声で
「そんなすぐにやめてしまうなんてダメ!」
とか
「やったうちに入らないよ!」
とか
「最後までやらないのは、本気だしてない証拠!」
とか、再生される人はかなり洗脳されていますが、早急に親離れしていただき、
「ちょっとだけ準備が進んだな」
と満足することが秘訣です。この場合は。
たとえば宿題がまだランドセルにつっこんだままになっている場合は、とりあえず、そこから取り出して、机の上に置いてみる。
それが「準備」ということです。
それだけでもよい。
次の日、目の前に現れた宿題をみて、ここからここまでやるんだな、とか、パラパラとめくってみる。それだけでもいい。それも「準備」だ。
その次は、筆箱を取り出して、えんぴつをけずってみる。また、夏休み帳の最初のページを開いておく、あるいは、机の周囲を片付けて、きれいにしておく。それだけ。
つまり、ちょっとだけ準備をやって、ちょっと間を置く。
この『間』を置くのがポイントで、そのときに、この『気持ちの発酵』というのが大事。酵母菌が発酵していないのに、パンをふくらませるのは無理でしょう。いきなり小麦粉をふくらませるのは、物理的に不可能なのです。
「ああ、これってやっておきたいよなあ。早めになあ」
という気持ちが、少しずつ醸成されていく。
だから、「気持ちを発酵させる」。
その発酵をうながすのが、「ほんの、ちょいとした準備」なのです。
ランドセルを開けるだけでいい。
そこから夏休み帳をとりだすだけでいい。
えんぴつを削るだけでいい。
そして、「ぼーっ」とする。
「これ、やらなきゃなあ。今やれば楽だよなあ。やっておきたいよなあ」と、ぼーっと静かに考えながら、自分の気持ちが素直になっていくのを見守るのです。そのくらいの落ち着いた、ピュアな心持ちです。決して、追い込むのではなく・・・。
ふと、「よーし、やってみるか」となる瞬間を待つのです。
やらないと死ぬ、とか、やらないと〇〇さんにどう思われるか、とか、余計なことは考えない。それは実力を削ぐ思考で、大リーグの大谷選手のようにはなれません。大谷選手は「打たなければ恥だ、ヒィ」とか「ホームランを打たないと死ぬ(過呼吸)」とか思っていないでしょうね。
気持ちがうまく発酵し、パンを焼く前のいい生地のようにふくらんでくると、自然とパワーが生まれてきます。そして、純粋にやりたくなる。やれるぞ、という自信も同時に、どこからかやってきます。これは断言してもいい。大丈夫、ふと、「やってみよっかな」という気持ちになる瞬間がやってきますから。
そこで、私はぜひ、世の中の小学生のみなさんに、お伝えしたい。
まず、ランドセルから出しなさい!(←キレ気味)
夏やすみ帳を!!(←絶叫)
話はそこからだ!!(←白目)