前回の【排除すればいい、という風潮】の記事に、多少の反響があった。当然だろう、という人もいたし、へえ、何故なのだろう、という反応もあった。
ふだん、「何かに失敗すると叱責され、ペナルティを与えられている」という体験を積んだ子どもたちが、そういう発想を自然としているのではないか、という卓見もあった。これには、なるほど、そうかもしれない、と思わされた。

さて、思い返してみると、このようなことはこれまでも多くあった。
これは以前の勤務校での話。

その学校では、午後はこのような流れでした。
【給食】⇒【休み時間】⇒【清掃】

ところで、給食の後、教室の机はどうするか。
多くの学校がこうしていると思う。
つまり、全員が教室の前の部分に、自分の机を動かすのであります。
なぜなら、教室の床をそうじするから。
机を前方に全体に寄せておいて、片側がきれいにできたら、今度は教室の後方にすべて移して動かし、それから残りの半分をきれいにするのであります。

ある子が、その「机の移動」をしないで、遊びに出てしまうことが連続した。

「先生、〇〇くんはまた机を動かしていないよ」

さらにその〇〇くんは、当番もよくさぼった。
給食の当番になると、野菜缶とか汁缶とか、みんなの食器とか、給食室に運ばないといけない。しかし〇〇くんはそういう日にも、休み時間の遊びを優先して、仕事をしないで校庭に出てしまうのでありました。

当然、クラス会議では、このことが議題になります。

すると、この〇〇くんが、声高に叫ぶのですよ。

「ペナルティを与えて、こらしめたらいい!」

わたしは当時、このことがすごく不思議でした。

「ええ?〇〇くん、だって、ペナルティのルールをつくると、〇〇くんが罰を受けることだってあるんだよ?」

わたしが心配して言うと、

「おれは大丈夫!」

と平気な顔です。
逆に、なんでおれのことばかり、先生が言うのか?と、不満そうにしています。
わたしはあまりにびっくりしたので、
「だって、先週だって〇〇くんは野菜缶の当番なのに、外に出ちゃったじゃない」
というと、それも気に入らない様子で、
「なんで先生は俺のことばかり言うの?」
と口をとがらしていました。


結局、このときはペナルティ制度を採用したものの、
いの一番に〇〇くんが机も動かさずにそのまま校庭に行ってしまい、ペナルティの対象者になりました。(正確に言うと、〇〇くんが自分は悪くない、他の子のせいだ、とあくまでもペナルティの実施をこばんだために、なにもしなかったのですが)

このように、自分の姿を客観視できない子、メタ認知できない子ほど、

「ペナルティで罰を与えればいい!」

と叫ぶのです。

〇〇くんは、いつも直感的な行動に走ります。
熟慮が苦手で、自分自身を直視することができない。
だから、自分のことを棚に上げて、平気で人を責めるし、人の不正には厳しく、あくまでも懲罰を下したい、こらしめたい、自分はそのかわり、【よい人】であるはずだ、と思う(思いたい)のです。

これは、世の中は善と悪に分かれるのだ、人間もよい人間と悪い人間がいるのだ、というような、勧善懲悪だけで物事を見通したい、という手抜き思考です。
そもそも、ひとを善と悪だけに分けられるわけがないのですが、ひとを個別に考えたり、善の意味、悪の意味、生きる目的などを考え始めるとなると、それはたいへんな複雑思考なので、ひとはみんなこういう思考が苦手なのでしょう。だからわれわれ人間が

勧善懲悪で決めればいい、深く考えたくない

と思うのも無理はないのです。

しかし、それを現代の小学校の生活に持ち込むのは無理ですね。だって、この子はよいこ、この子は悪い子、と決めるのは、馬鹿げていますから。

道徳の授業で、善悪を超えるような討論が始まると、〇〇くんはとてもめんどうくさそうにします。

「Aが悪いやつで、Bがいいやつ。それでいいじゃん!はやくこんな話し合い、終わりにしようよ!」

そう叫んだ〇〇くんの困惑したような、ゆがんだ表情の悲痛な姿を今でも時々、思い出します。
問題を処理するのが人生の目的ではないですものネ。

majin