北陸地方の奇談集『北越奇談』に、人間と山男の交流の記述がある。
越後国高田藩(現 新潟県上越市近辺)で山仕事をしている人々が夜に山小屋で火を焚いていると、山男が現れて一緒に暖をとることがよくあったという。
身長は6尺(約180センチメートル)、赤い髪と灰色の肌のほかは人間と変わりない姿で、牛のような声を出すのみで言葉は喋らないものの、人間の言葉は理解する様子がうかがえた。
裸身で腰に木の葉を纏っているのみだったので、ある者が獣の皮を纏うことを教えたところ、翌晩には鹿を捕えて現れたので、獣皮の作り方を教えてやったという。

この話が妙に気になり、奇談集『北越奇談』は、かの葛飾北斎が描いているというから、長野県小布施市の「北斎館」まで行き、本物を見てきた。愛知の岡崎市からだと、高速道路で4時間ほど。日帰りで強攻だったが、嫁様のご機嫌を伺いつつの家族へのサービスも兼ねて行ってきた。

Hokusai_Yama-otoko


どうしてこのような「奇妙で話の通じない者」との交流が気になるかというと、やはり日常において、人と人との話が通じない、理解しあえない、ということがあるからだ。

北斎館

今の政治を見ていると、「ひとと人とは理解しあわないのが普通」ということがよくわかる。
たとえば文科省がツイッターで#教師のバトン という投稿を呼びかけた。
本当の役人側のねらいは、教師の魅力や良さをメッセージに込めて現場から発信してもらい、教員のなり手が劇的に少なくなっている現在、少しでもその「なり手」を増やすことに貢献することであった。

ところが、実際には文科省が頭を抱えるほど教師のむくわれなさと現場の苦しさが訴えられてしまい、ねらいとはまったく逆の結果になっている。これは当然で、役人が現場の教師のことを知らないからであり、なぜ知らないかというと、これも無理もない、しょせん、人はひとのことなどわからないのである。

わたしはこれは確信犯で、文科省はこうなることを当然予測し、効果を見込んでやっていると思う。だって、文科省の予算を削ってるのは「通産省」であり「財務省と金融庁」なんだもの。

話を元に戻して、わたしは「話が通じないだろう、と思う人と、どのように接するか」ということに非常に興味がある。これは母親にも当てはまる。なぜなら、生まれたばかりの赤ん坊は、話が通じない。2,3歳ころから通じたかな、と思うことはあっても、話がくいちがったり、大人の常識がまったく子どもの方には無かったり、当然こう考えるだろう、と大人が思うことも、子どもはそうは思わない、ということが連続するからである。

考えてみれば当然で、わたしたちは、相手の脳内で起きることをすべて計画し、コントロールしているわけではない。相手をコントロールするのは不可能なこと。現在の政府がまったく国民感情を理解しないように見えるのも、これはもう当然のことなのである。

わたしが北斎館でこの絵を見ながら小一時間瞑想にふけっているのを、北斎館の方がちょっと変に思って様子を見に来られたが、わたしが別にただじっと考え込んでいるだけなのをみて、安心して元の場所へ帰って行かれた。

北斎の描いた「山の男」は化け物という感じが強く、とても人の姿とは思えない。しかしよくその説明を読むと、身振り手振りなどをみてきちんと気持ちや考えていること、伝えようとすることは理解するようである。
北越奇談のみならず、全国にあるこのような山男奇談を点検してみると、やはり言葉は通じないが、相手のことを親身になって心配したり、手伝ってやったりと、妙なことになかなか心を通じ合わせることができており驚く。

この絵を見る限り、おそらくロシア系の民族であろう。難破船でほうほうのていでたどり着いたのが日本列島であったのだろうか。たしかに冬は列島に向けて季節風が吹きつける。命からがらたどり着いた異国の地で、言葉も通じぬし、「鬼だ!」と驚かれるし、人目につかぬ山の奥へこもってなんとか生き抜こうとしたのだろうか。このロシア人が日本人の暖を取っている場に来て、少なくとも何度かくりかえして交流を試みているのは興味深い。どんな心境だったのか、人恋しさはあったのだろうか、想像するのが面白い。

静岡に伝わる山男奇談によると、あるときに遠州の又蔵という者が、病人のために医者を呼びに行く途中、誤って谷に落ち、足を痛めて身動きがとれなくなった。そこへ山男が現れ、又蔵を背負って医者のところまで辿り着くと、かき消えるように姿を消した。後に又蔵が礼の酒を持って谷を訪れたところ、山男が2人現れ、喜んで酒を飲んで立ち去ったという。

また、「北越雪譜」第二編巻四によれば、天保年間より40〜50年前の頃、越後魚沼郡堀之内から十日町に通じる山道を通りがかった竹助という者が午後4時頃に道の側に腰かけて焼飯を食べていると、谷あいから猿に似たものが現れた。その背丈は普通の人より高くはなく、顔は猿のようには赤くなく、頭の毛が長く背に垂れていた。害をなす様子はなく、焼飯を求めるそぶりをするので竹助が与えると嬉しそうに食べた。この者は竹助の荷を肩に掛けて山道を先に立って歩き、1里半ほど行って池谷村に近くなったところで荷を下ろして素早く山へ駆け登った。その当時は山で仕事をする者が折々この「異獣」を見たという。柳田國男は「北越雪譜」のこの記事を、山人が米の飯に心を引かれた例であるとしている。

わたしがこの「竹助」であったら、谷あいからふと現れたこの「異人」にどのように対応するのであろうか。きっと体がもう硬直して腰をぬかしてしまい、気絶するやもしれぬ。
しかしこの「竹助」さんは、ちゃんと相手の様子をみて『害をなす様子がない』ことを悟っている。きちんと分析し、相手の出方を見定め、コミュニケーションをとっているのである。すごいなと感心する。

このような「山人」「山男」というのは、実は日常に、すぐ近くにいる。
わたしであり、あなたのことである。
言葉を使っているから、日本語を話すからといって、わかりあっているわけではない。
まったく知らないのである。本心なんて。

教室の子どもたちの本心も、わたしはちっとも知らない。
わかったふりをしている教師がいるだけである。