小学生こそ、今の世の中について意見を言わなければならない。
なぜなら、「当事者だから」。
あきらめ気分の大人を叱咤激励するか、あるいはお疲れ様、と大人の肩をやさしくたたくか。
いずれにしても、
「当人たちが生きて働き、夢を持ち希望をたずさえて、子どもを産み育て、育つ社会」
なのだ。
それを、無関心にさせておいていいはずがない。
今の教師が子どもたちにこそ、
「大いに意見を言おう、まちがっていたとしてもいい」
と言わねば。
そして、子どもたちの意見に「それはまちがっている」といえる大人はほとんどいない。
なぜかというと、こんなに問題が山積みなのに、子どもの知恵や意見を借りないわけにはいかないし、大人が全部課題を解決できるという保証もない。
大人が言えるのは、
「まちがっているかどうかはわたしたちにもわからない。やってみよう。ともに」
ということだけだ。
先日書いた記事
にも書いたが、
いつの時代も、課題は山積みだが、それにむけて希望も同時に見えてきているはず。
わたしたちが子どものころもそうだった。携帯電話をみんなが持つようになる、という夢物語をきいて、「そうなったらどこにいても連絡が取れるから、どんなに便利だろう」と思った。
実際に、便利になりましたね。
たしかに、みんながスマホで写真や動画やテキストをやり取りするようになり、一層理解しあえるようになった部分もある。
しかしその一方で、それ以上に世界が広がりすぎて、やはりまだ「知らない、よくわからない」ということも爆発的に増えたようだ。ヘイトなどを安易に信じ込む人が増えたのも、逆にこうして「近くに見えてきた(ように感じる)」という感覚、とらえ方に影響を受けていると思う。断片的な情報ばかり増えたからね。人が一生のうちに口にする断片的なうわさ話の量は、江戸時代に比べて数億倍に増えているらしいから。
私の嫁さまは、モスクワの天気を見て、本日の愛知県の気温と比べて
「モスクワって寒いと思ったら意外とあったかい日もあるね」
としゃべっていたが、モスクワの天気など気にならない暮らしを何十年もつづけてきたからか、毎日のようにこうしてモスクワの気温と自分の住んでいる町の気温を比べることの良さが、今ひとつわからない。しかし嫁様はとてもこの行動を楽しんでいるらしく、
「だって、世界中の人の様子を想像できるし、おもしろい」
という。

モスクワの人が今日はセーターを脱いで、軽めのカーディガンとか薄めのジャケットで過ごしているのを空想し、
「ふふふ、モスクワの人も春がきてうれしいねえ」
と毎日5秒くらい、考えるのだそうだ。
あほか、と思うが、今はそういう楽しみ方もできる、ということ。
1980年代も2020年代も、そういう意味では変わらない。
できることもあるし、困ったこともある。
また、今後できそうでクリアになる課題もありそうだし、
逆に、さらにリスクの増す課題もありそうだ。
そんな中で、子どもたちが国連に働きかけたり、企業に働きかけたり、新聞社に手紙を書いたりするということには、非常に意味がある。
で、どうやってプラスチックを減らし、どうやって水源を守るかを大人を巻き込んで運動していくことについては、大人が勇気をもって、彼らを勇気づけねばなるまい。大人もまだまだ力不足なんだと認めて。
子どもを勇気づけるのに、大人の勇気がまずは必要だというオチ、ね。
なぜなら、「当事者だから」。
あきらめ気分の大人を叱咤激励するか、あるいはお疲れ様、と大人の肩をやさしくたたくか。
いずれにしても、
「当人たちが生きて働き、夢を持ち希望をたずさえて、子どもを産み育て、育つ社会」
なのだ。
それを、無関心にさせておいていいはずがない。
今の教師が子どもたちにこそ、
「大いに意見を言おう、まちがっていたとしてもいい」
と言わねば。
そして、子どもたちの意見に「それはまちがっている」といえる大人はほとんどいない。
なぜかというと、こんなに問題が山積みなのに、子どもの知恵や意見を借りないわけにはいかないし、大人が全部課題を解決できるという保証もない。
大人が言えるのは、
「まちがっているかどうかはわたしたちにもわからない。やってみよう。ともに」
ということだけだ。
先日書いた記事
にも書いたが、
いつの時代も、課題は山積みだが、それにむけて希望も同時に見えてきているはず。
わたしたちが子どものころもそうだった。携帯電話をみんなが持つようになる、という夢物語をきいて、「そうなったらどこにいても連絡が取れるから、どんなに便利だろう」と思った。
実際に、便利になりましたね。
たしかに、みんながスマホで写真や動画やテキストをやり取りするようになり、一層理解しあえるようになった部分もある。
しかしその一方で、それ以上に世界が広がりすぎて、やはりまだ「知らない、よくわからない」ということも爆発的に増えたようだ。ヘイトなどを安易に信じ込む人が増えたのも、逆にこうして「近くに見えてきた(ように感じる)」という感覚、とらえ方に影響を受けていると思う。断片的な情報ばかり増えたからね。人が一生のうちに口にする断片的なうわさ話の量は、江戸時代に比べて数億倍に増えているらしいから。
私の嫁さまは、モスクワの天気を見て、本日の愛知県の気温と比べて
「モスクワって寒いと思ったら意外とあったかい日もあるね」
としゃべっていたが、モスクワの天気など気にならない暮らしを何十年もつづけてきたからか、毎日のようにこうしてモスクワの気温と自分の住んでいる町の気温を比べることの良さが、今ひとつわからない。しかし嫁様はとてもこの行動を楽しんでいるらしく、
「だって、世界中の人の様子を想像できるし、おもしろい」
という。

モスクワの人が今日はセーターを脱いで、軽めのカーディガンとか薄めのジャケットで過ごしているのを空想し、
「ふふふ、モスクワの人も春がきてうれしいねえ」
と毎日5秒くらい、考えるのだそうだ。
あほか、と思うが、今はそういう楽しみ方もできる、ということ。
1980年代も2020年代も、そういう意味では変わらない。
できることもあるし、困ったこともある。
また、今後できそうでクリアになる課題もありそうだし、
逆に、さらにリスクの増す課題もありそうだ。
そんな中で、子どもたちが国連に働きかけたり、企業に働きかけたり、新聞社に手紙を書いたりするということには、非常に意味がある。
で、どうやってプラスチックを減らし、どうやって水源を守るかを大人を巻き込んで運動していくことについては、大人が勇気をもって、彼らを勇気づけねばなるまい。大人もまだまだ力不足なんだと認めて。
子どもを勇気づけるのに、大人の勇気がまずは必要だというオチ、ね。