聖徳太子が亡くなって、もう1400年が経つ。
西暦622年に亡くなったという。
ここは、「もうそんなに経つんかー」と言ってみたい気分(言えないけど)。
太子と面識はないが、なんとはなしに、身近な人ではあるね。

さて、わたしはかつて、クイズ王(アタック25で優勝経験を持つ)の加藤学さんに京都を案内してもらったことがある。

そのときのことは、記事にも書いた。
(なんとその加藤学さんは、先日の4月4日にテレビ朝日で放映された「45年の思い出」の回に登場し、キレッキレの追い上げを見せてトップ賞!)

その京都の旅行の後に、少しだけ暇があった。
そこで、ふと、奈良を見ておきたくなり、四天王寺に行った。
2019年の4月のことで、コロナの1年前だったから、まだあれこれと見学ができた頃だ。

拝観料を払って中に入ると、五重塔と金堂があり、わたしは回廊をおもむろに回ったあと、金堂に入った。ここに救世観音がおわしまして、何人かの敬虔な信者の方がひざまづいて祈っておいでになりました。

わたしも静かに観音様を見、頭を垂れて己の罪深さをしみじみふりかえっておりますと、なにやらにわかに人が増えてきた。
そして、わたしはどんどんと奥へ追いやられてしまった。
すると、若いお坊様が中へお入りになり、なにやら小さなか細い声で、おっしゃいました。

わたしは聞き取れないままに人に流されるようにして、少しお坊様の周りを空けたようにしてそこに居たのだが、まだ状況が呑み込めず、隣にいた白髪の物腰静かな老婆の隣で、帰りの高速バスの時間を気にしていました。

すると、今度は明らかに主役と思われる、すごい法衣をまとったどえらいお坊様が入っていらした。
わたしはとっさに「やばい」と感じ、ここにいていいのだろうか、どうすればいいのか、と軽くパニックに。ところが隣の白髪の御婆様はじっと動かず、四方の周囲の誰も動かないため、わたしはどうすることもできずにそこに立ちすくんだままだ。

見ていると、儀式が進みだした。
なにか、お辞儀を繰り返していた若い坊さまがケースから小さな上等のビロウド袋を取り出し、頭にうやうやしく掲げると、それをば偉い坊様にバトンタッチした。さすればそれを坊様は長い念仏で丁寧に、ねんごろに扱ったかと思うと、それを隣のばあ様の頭の上に、とんとんと、なにか真似をしたのでございます。

わたしはよく事情が呑み込めないために、なにか緊張して体をかたくしておりますと、若い坊様がやさしく私に指導してくださった。
「あたまを下げてください」

ぽんぽん、と、目をつむった私の頭に、なにかを当ててもらった感覚。
そして、なにやらおごそかに唱える声が聞こえる。
どうやら、えらい儀式に参加してしまったよう。
あとで聞いたところによると、それは毎日11時より行われる舎利出しの法儀というもので、南無仏のお舎利を以て、ご先祖のお戒名(霊名)が書かれたお経木にあてられ、又参詣者の頭にあててもらおうという取り組みなんだそうです。

わたしはこのあと、儀式に参加した廉(かど)により金銭を請求されたらどうしようか、帰りの高速バス代はどうなるのか、と正直生きた心地がしなかった。

それにしても、仏陀の魂がこめられたお骨でもって、この頭を清めていただいたことは本当に光栄なことだ。悪い脳みそも、これで多少は聖徳太子の慈悲深さによりそのめぐりの悪さが軽減したのではないかと思って心が安らいだ。

なんでこんなことをいまさら思い出したかというと、先週のニュースで「厩戸皇子1400回忌」が報道されていたからだ。西院伽藍では舞楽(ぶがく)などが披露されたようだ。
奈良はいいな、とそのとき、報道されるテレビ画面を眺めながら、わたしは思った。
この土地では、ふとしたときに、またたくまに1400年のときを超えて、その当時の生きた人間にふれることができる。

わたしが暮らす愛知県はせいぜい・・・、江戸時代か戦国時代、までだからなあ。
徳川家康公を思うと、彼はなんとまあ、最近の人であろうか、と思うのである。
奈良は偉大だ。またいつか、行きたいな。

四天王寺