卒業式が終わり、いよいよ職員室は戦闘モードに突入した。
これから学校の公的文書の中では最後の砦と言われてきた、「要録」づくりが始まる。
それと同時並行で、
なんせ、異動だけで十名を超える。
小規模な学校だと約3分の1が異動である。学校が変わる先生も大変だが、残る先生も引っ越しだ。2階から3階へ、というだけならまだしも、別の棟や建物に引っ越すとなると、なかなか大変だ。
愛知県内を東西南北くまなく異動した経験から、引っ越し大名、と言われるS先生が、途方に暮れたような声で
「あの荷物、どうやって引っ越そう」とぶつぶつつぶやいており、周囲の先生たちから失笑を買っている。
S先生は独自に作成する教材教具づくりのプロであり、その教室内での実践は子どもたちからも人気があってすばらしい。ところがいざ今日になってみると、それらは宝物ではなく、ただ単に引っ越しをしにくくさせる厄介な荷物に見えているようだ。
さて、そのさなかに「職員会議」と呼ばれる御前会議が10くらい計画されており、そのつど、次年度のための非常に重要な決定がされていく。次年度は、ほぼここで出された線で、実行されていくのだ。
「3月の時点で、方向が決まっておりました」
というのは、どの先生も使う、いわば伝家の宝刀だ。年度途中でさまざまな意見が出てきても、最終的には担当の先生がこの時期に出した「この方向」と呼ばれる答申が職員会議で承認されていたら、どの先生もそれに従わざるを得ない。
頭の中は、しっちゃかめっちゃかである。
目線の先には引っ越しの荷物が見えており、頭の中は次年度の運動会のことを考えており、ところが参加している職員会議ではGIGAスクール構想について議論している、というのが、今、全国の多くの小学校でもくりひろげられている実態だろう。小学校は全国に2万校ある、といわれており、教員は40万人いるらしいから、その40万人の中の半分は、こうして目線と頭と会議が乖離していると思う。(個人の印象にすぎません)
さて、今日はひさびさに血沸き肉躍る大論争がもちあがった。
GIGAスクール担当の私と、職務上それを進めざるを得ない教頭が矢面に立ち、一斉攻撃を受けた。
実は、市から、
「今度くばられるタブレット端末を、家庭に持ち帰って自主学習などに使え」
という指針が出されている。
ところが、これが職員室に火をつけた。
「1年生が無事に持ち帰れるとは到底思えません!」
「1年生の中には、ランドセルのふたをしめないでひっくり返している子が日常的にいます!」
「田んぼの中に落としても無事なんですか?防水とか?」
わたしはおどおどしながら体を揺らし、前かがみになって手をもみ、
「いえ、防水ではありません。田んぼに落としたら、その時点で故障確定、電源は今後いっさい入りません」
というしかない。
そのあまりに無責任な回答に対し、おおー、というどよめきが起きる。
あちこちの島で「無理よねえ」「こんなの許せない」というつぶやきまではっきりと聞こえてくる。
わたしは追い打ちをかけるように、
「ええ、持ち帰ってもし使ったとしても、充電ができない、という問題があります」
教頭がうらめしそうに私を見る。
「なぜなら、家庭には充電ケーブルは配られないし、電気代がかかることに嫌悪感を示すご家庭もあるだろうと思います。また、無線LANで接続できるはずですが、おうちでその設定をしなければならず、無線LAN機器のSSIDと呼ばれるパスワードを入れたりとか、一定のご負担をご家族にお願いすることになります」
「それを、児童全員に強制する、ということでしょうか!」
定年近い年配の先生は、ほとんど怒声に近い声でそれを言う。
「そんなことを、勝手にこっちで決めてしまっていいんですか?第一、保護者にはなにひとつこういった説明をしていないじゃないですか!」
「無線LANがある前提のようですけど、みんながみんな、そうじゃないですよ!」
「そうですよ、保護者の中には、そんなこと聞いてないよ、という人も多いと思いますが!」
わたしは目線を下げ、ほとんど腰を曲げて、その怒声をうやまうようにして聞く。
担当者というのは、こういうものだ。
ちらっと、テレビでこういうの、見たことあるな、と思う。
政治のしりぬぐいをさせられる官僚が、こうやって頭をさげているのを見たことがある。
「とにかく、タブレットを家に持ち帰る、なんていうのは、現段階では保護者の同意がない限り、学校側で勝手に決めてしまうことではないと思います!」
ほとんどの先生がそれに賛成だった。
わたしと教頭は、引き下がった。
さて、どうなるのだろうか。
鄧小平が「富める者から豊かになれ」と指示したのが先富論であった。
しかしそれは巨大な格差を生み、中国はいまだに人口の半分以上が貧困に悩んでいる。
李克強首相が掲げる経済政策で、貧困層を救う「リコノミクス」が提唱されるが、それも遅々として進んでいない。おそらく、富んだ者が社会全体を親愛の情で見つめる、というのは理想に過ぎない。富んだ者は自身がつかんだ経済的な富は、競争の中で勝ち取ったと理解する。それは、弱者を切り捨てる、ということと同義だからだ。
写真は、リコノミクスを掲げる李 克強(り こっきょう、り こくきょう)首相。
タブレットを学校に配備し、児童が使えるようにする、というのは、必要なことだと思う。
しかし、あまりにも、そのことを進めるための、地盤整備が遅れている。
「えっと、新間先生、その場合、家庭に『充電ケーブル』を配るんですか?」
わたしは、それを聞いたとき、とっさに充電ケーブルをアマゾンでポチりたくなった。購入数のところを、「500」にして。
これから学校の公的文書の中では最後の砦と言われてきた、「要録」づくりが始まる。
それと同時並行で、
〇どの先生が異動になるかなど、多岐にわたるチェックと大引っ越し作業がはじまるからだ。
〇その先生の仕事をだれがどのように引き継ぐか
〇そもそも次年度の校務の分掌はどのようにするのか
〇備品の紛失はないか
〇教科書をどの部屋において、チェックするのはいつか
〇教室は来年度どの先生がどのクラスがどのように使うか
なんせ、異動だけで十名を超える。
小規模な学校だと約3分の1が異動である。学校が変わる先生も大変だが、残る先生も引っ越しだ。2階から3階へ、というだけならまだしも、別の棟や建物に引っ越すとなると、なかなか大変だ。
愛知県内を東西南北くまなく異動した経験から、引っ越し大名、と言われるS先生が、途方に暮れたような声で
「あの荷物、どうやって引っ越そう」とぶつぶつつぶやいており、周囲の先生たちから失笑を買っている。
S先生は独自に作成する教材教具づくりのプロであり、その教室内での実践は子どもたちからも人気があってすばらしい。ところがいざ今日になってみると、それらは宝物ではなく、ただ単に引っ越しをしにくくさせる厄介な荷物に見えているようだ。
さて、そのさなかに「職員会議」と呼ばれる御前会議が10くらい計画されており、そのつど、次年度のための非常に重要な決定がされていく。次年度は、ほぼここで出された線で、実行されていくのだ。
「3月の時点で、方向が決まっておりました」
というのは、どの先生も使う、いわば伝家の宝刀だ。年度途中でさまざまな意見が出てきても、最終的には担当の先生がこの時期に出した「この方向」と呼ばれる答申が職員会議で承認されていたら、どの先生もそれに従わざるを得ない。
頭の中は、しっちゃかめっちゃかである。
目線の先には引っ越しの荷物が見えており、頭の中は次年度の運動会のことを考えており、ところが参加している職員会議ではGIGAスクール構想について議論している、というのが、今、全国の多くの小学校でもくりひろげられている実態だろう。小学校は全国に2万校ある、といわれており、教員は40万人いるらしいから、その40万人の中の半分は、こうして目線と頭と会議が乖離していると思う。(個人の印象にすぎません)
さて、今日はひさびさに血沸き肉躍る大論争がもちあがった。
GIGAスクール担当の私と、職務上それを進めざるを得ない教頭が矢面に立ち、一斉攻撃を受けた。
実は、市から、
「今度くばられるタブレット端末を、家庭に持ち帰って自主学習などに使え」
という指針が出されている。
ところが、これが職員室に火をつけた。
「1年生が無事に持ち帰れるとは到底思えません!」
「1年生の中には、ランドセルのふたをしめないでひっくり返している子が日常的にいます!」
「田んぼの中に落としても無事なんですか?防水とか?」
わたしはおどおどしながら体を揺らし、前かがみになって手をもみ、
「いえ、防水ではありません。田んぼに落としたら、その時点で故障確定、電源は今後いっさい入りません」
というしかない。
そのあまりに無責任な回答に対し、おおー、というどよめきが起きる。
あちこちの島で「無理よねえ」「こんなの許せない」というつぶやきまではっきりと聞こえてくる。
わたしは追い打ちをかけるように、
「ええ、持ち帰ってもし使ったとしても、充電ができない、という問題があります」
教頭がうらめしそうに私を見る。
「なぜなら、家庭には充電ケーブルは配られないし、電気代がかかることに嫌悪感を示すご家庭もあるだろうと思います。また、無線LANで接続できるはずですが、おうちでその設定をしなければならず、無線LAN機器のSSIDと呼ばれるパスワードを入れたりとか、一定のご負担をご家族にお願いすることになります」
「それを、児童全員に強制する、ということでしょうか!」
定年近い年配の先生は、ほとんど怒声に近い声でそれを言う。
「そんなことを、勝手にこっちで決めてしまっていいんですか?第一、保護者にはなにひとつこういった説明をしていないじゃないですか!」
「無線LANがある前提のようですけど、みんながみんな、そうじゃないですよ!」
「そうですよ、保護者の中には、そんなこと聞いてないよ、という人も多いと思いますが!」
わたしは目線を下げ、ほとんど腰を曲げて、その怒声をうやまうようにして聞く。
担当者というのは、こういうものだ。
ちらっと、テレビでこういうの、見たことあるな、と思う。
政治のしりぬぐいをさせられる官僚が、こうやって頭をさげているのを見たことがある。
「とにかく、タブレットを家に持ち帰る、なんていうのは、現段階では保護者の同意がない限り、学校側で勝手に決めてしまうことではないと思います!」
ほとんどの先生がそれに賛成だった。
わたしと教頭は、引き下がった。
さて、どうなるのだろうか。
鄧小平が「富める者から豊かになれ」と指示したのが先富論であった。
しかしそれは巨大な格差を生み、中国はいまだに人口の半分以上が貧困に悩んでいる。
李克強首相が掲げる経済政策で、貧困層を救う「リコノミクス」が提唱されるが、それも遅々として進んでいない。おそらく、富んだ者が社会全体を親愛の情で見つめる、というのは理想に過ぎない。富んだ者は自身がつかんだ経済的な富は、競争の中で勝ち取ったと理解する。それは、弱者を切り捨てる、ということと同義だからだ。
写真は、リコノミクスを掲げる李 克強(り こっきょう、り こくきょう)首相。
タブレットを学校に配備し、児童が使えるようにする、というのは、必要なことだと思う。
しかし、あまりにも、そのことを進めるための、地盤整備が遅れている。
「えっと、新間先生、その場合、家庭に『充電ケーブル』を配るんですか?」
わたしは、それを聞いたとき、とっさに充電ケーブルをアマゾンでポチりたくなった。購入数のところを、「500」にして。