いつも、子どもたちと一緒に生活をしております。
すると、大人にはないような出来事もたくさん起きる。
大人どうしであれば、そんなことはないだろうな、ということ。多いですね。
1)大声を出して、とっくみあいの喧嘩
東京は町田の繁華街で、中華料理の店から出たら、目の前で大人がなぐりあっていたのを見たのは、あれはもう20年ほど前か。でもまあ、酔っ払って双方がおかしな調子にならない限り、大人はさほど、子どものようにとっくみあいの喧嘩をすることもないような気がします。
なぜ子どもはとっくみあうかというと、まあちょっと、試してみたいんでしょうね。わたしも隣の家のケンちゃんと本気でなぐりあったことがあります。わたしは8歳、ケンちゃんは7歳でしたね。わたしの持っていたおもちゃを、ケンちゃんがわざと、どぶに落としたのがきっかけですね。当時は「嫉妬」という感情をよく理解していませんでした。
2)大声を出して、悪口の言い合い
これももう15年前でしょうか。神奈川県のとある駅で、駅員さんがいるにもかかわらず、大声で怒鳴りあい、ののしりあっていた乗客どうしがいましたが、まあ、大人ではめずらしいような気もします。小学校だと、たまにありますよ。大人よりは頻度が多いように思います。
なぜこんなことを書いているかというと、疑問がありまして、なぜ子どもどうしはなぐりあったり、大声で喧嘩したり、というのがあるのだろうか。大人になるとその頻度がかなり減るのはなぜだろうか。というのがちょっとよく分からない。だれか、教えてほしいと思います。
先日は、大好きな芸能人についてスピーチしあう、ということがありました。
これは国語の教科書や外国語の教科書や、理科や算数でもそうなんですが、今の文科省はとにかく、子どもに「自分の意見を言わせたい」のです。先日県の講座で講師として招かれていた文科省の担当者も、かなりそれを言ってます。「まずはアウトプットさせたい」と。
ともかく、上から知識が降ってくるようなこれまでの学習のイメージを、根底から変えたいようです。なので、欧米のような「討論」のイメージで、学習を進めたいらしい。
そうするためには、今の学校でも、とにかく自分の意見はこうだ、と言わせたいのです。
研究授業などは、もうそんなのばかりで、とにかくアウトプットさせた場面を文科省の息のかかった講師がどんどんと高評価しています。
で、ここからが問題。
実は、日本人の子どもたちに、育っていないものがありまして。
だから、上記のような文科省のもくろみは、意外にもうまくいかないのです。
それは、「他の評価を気にして許せない」という日本人の特性でしょうかね。
ある子が意見をいうと、それをすんなりと承知しないのですね。
いや、意見なら討論になってもよいのですから、文句をつけてもいいのです。
しかし、ただの感想や印象を述べた程度であっても、「それはちがう」とケチをつける。
それが日本人の癖なのでしょうか。大人もそうだから、子どもだけ変えるのは難しい、という人さえいます。
感想はそれをそのまま、まずは受けたらいいじゃないか。
と思うのですが、そうでもないのですよ。なかに、「ケチ」をつける子がいるんですね。
また、「ケチ」をつけられても、「へえ、そう」と意に介さない子もちゃんといます。
「へー、わたしはそう思うんだけどな。あんたはちがうんだね」という感じで。
ところが、そうじゃなくて、「いや、〇〇は▲▲でしょ!」と。「なんでそんなことを言うんだ」と、険悪なムードになる子もいる。
したがって、文科省の役人が進めようとしている「意見をアウトプットする」というのすら、難しいという現状があるのですよ。文科省の役人は、ぜんぜん気づいていないでしょうけど・・・。
大好きな芸能人のことを「好きだし、あこがれる」と話したら、「えー、ぜんぜんかっこよくないじゃん」という子がいて、そこから大荒れ。つかみあいの喧嘩、一歩手前になりました。
文科省の方は、この事象から、あることに気づいていただきたいと思います。つまり、相手の話すことをそのまま聞く、というかんたんのようでいて、すこぶる難しいことを、ちゃんと学習しないとダメ、ということです。
「ひとの言葉の聞き方」から教科書で扱わないとね。現場からは以上です。

すると、大人にはないような出来事もたくさん起きる。
大人どうしであれば、そんなことはないだろうな、ということ。多いですね。
1)大声を出して、とっくみあいの喧嘩
東京は町田の繁華街で、中華料理の店から出たら、目の前で大人がなぐりあっていたのを見たのは、あれはもう20年ほど前か。でもまあ、酔っ払って双方がおかしな調子にならない限り、大人はさほど、子どものようにとっくみあいの喧嘩をすることもないような気がします。
なぜ子どもはとっくみあうかというと、まあちょっと、試してみたいんでしょうね。わたしも隣の家のケンちゃんと本気でなぐりあったことがあります。わたしは8歳、ケンちゃんは7歳でしたね。わたしの持っていたおもちゃを、ケンちゃんがわざと、どぶに落としたのがきっかけですね。当時は「嫉妬」という感情をよく理解していませんでした。
2)大声を出して、悪口の言い合い
これももう15年前でしょうか。神奈川県のとある駅で、駅員さんがいるにもかかわらず、大声で怒鳴りあい、ののしりあっていた乗客どうしがいましたが、まあ、大人ではめずらしいような気もします。小学校だと、たまにありますよ。大人よりは頻度が多いように思います。
なぜこんなことを書いているかというと、疑問がありまして、なぜ子どもどうしはなぐりあったり、大声で喧嘩したり、というのがあるのだろうか。大人になるとその頻度がかなり減るのはなぜだろうか。というのがちょっとよく分からない。だれか、教えてほしいと思います。
先日は、大好きな芸能人についてスピーチしあう、ということがありました。
これは国語の教科書や外国語の教科書や、理科や算数でもそうなんですが、今の文科省はとにかく、子どもに「自分の意見を言わせたい」のです。先日県の講座で講師として招かれていた文科省の担当者も、かなりそれを言ってます。「まずはアウトプットさせたい」と。
ともかく、上から知識が降ってくるようなこれまでの学習のイメージを、根底から変えたいようです。なので、欧米のような「討論」のイメージで、学習を進めたいらしい。
そうするためには、今の学校でも、とにかく自分の意見はこうだ、と言わせたいのです。
研究授業などは、もうそんなのばかりで、とにかくアウトプットさせた場面を文科省の息のかかった講師がどんどんと高評価しています。
で、ここからが問題。
実は、日本人の子どもたちに、育っていないものがありまして。
だから、上記のような文科省のもくろみは、意外にもうまくいかないのです。
それは、「他の評価を気にして許せない」という日本人の特性でしょうかね。
ある子が意見をいうと、それをすんなりと承知しないのですね。
いや、意見なら討論になってもよいのですから、文句をつけてもいいのです。
しかし、ただの感想や印象を述べた程度であっても、「それはちがう」とケチをつける。
それが日本人の癖なのでしょうか。大人もそうだから、子どもだけ変えるのは難しい、という人さえいます。
感想はそれをそのまま、まずは受けたらいいじゃないか。
と思うのですが、そうでもないのですよ。なかに、「ケチ」をつける子がいるんですね。
また、「ケチ」をつけられても、「へえ、そう」と意に介さない子もちゃんといます。
「へー、わたしはそう思うんだけどな。あんたはちがうんだね」という感じで。
ところが、そうじゃなくて、「いや、〇〇は▲▲でしょ!」と。「なんでそんなことを言うんだ」と、険悪なムードになる子もいる。
したがって、文科省の役人が進めようとしている「意見をアウトプットする」というのすら、難しいという現状があるのですよ。文科省の役人は、ぜんぜん気づいていないでしょうけど・・・。
大好きな芸能人のことを「好きだし、あこがれる」と話したら、「えー、ぜんぜんかっこよくないじゃん」という子がいて、そこから大荒れ。つかみあいの喧嘩、一歩手前になりました。
文科省の方は、この事象から、あることに気づいていただきたいと思います。つまり、相手の話すことをそのまま聞く、というかんたんのようでいて、すこぶる難しいことを、ちゃんと学習しないとダメ、ということです。
「ひとの言葉の聞き方」から教科書で扱わないとね。現場からは以上です。
