多くの教育者が
「子どもには、少しずつ与えよ」
と言っている。
これは子どもが自己形成するにあたり、雑(ざつ)な感性を育てるか、繊細(せんさい)な感性を育てるか、という2つの道があり、まあ教育的には、雑よりも繊細が良い、と考えるからでしょうね。
なぜ繊細が良いかというと、『センサーの感度が鋭い方が良い』、と考えるからでしょう。
たとえば温度計が、1の位を基準にして表示されるとしたら、
18度(℃)
とかになる。
それが10分の1の位を基準にしていたら、
18.8度(℃)
とかの表示ができる。
すると、18度よりも実は19度に近いじゃん、という、
より科学的で合理的な事実のとらえ方ができるようになる。
1の位を基準にする子を育てるか、10分の1の位まで知ろうとして感受できる子を育てるか。
それが、雑な子か、繊細な子か、のちがいでしょう。
しかし、大人の側の都合からいうと、
繊細な子を育てるのは、えらい苦労がかかる
ということが分かっています。
繊細な子を育てるのは、繊細でなければならないのです。
雑ではとうてい、つとまらない。
だからなかなか、そうは問屋が卸さない。
なんて言ったって、学校では、35人から40人ですから。
その大人数ををせまい部屋に入れて、いっせいに給食を食べさせ、いっせいに同じような絵を描かせる。で、クーピーの12色とか、絵の具の24色とか、ドバアーッ、と最初に与えます。
だって、細かくていねいになんて、一人ひとりをみてなんか、いられないですもん。
本当は最初は赤だけで、徐々に青を足し、黄色を足し、少しずつその色の味わいを、子どもとともに味わい、言語化しながら、身体で表現しながら、色を繊細に味わいつつ、・・・というのがやりたくても、とうていそこまで手が回らないから、
入学と同時に、サクラクレパス16色、一気にどーん!
です。
サクラクレパスが悪いのでありません。
社会の仕組みとアイデアが、まだ貧困、ということです。
アイデアと知恵が、足りてない、のですな。
で、1年生なのにもう16色で絵を描かせてしまいますが、
16色で描くのにせいいっぱいがんばった子たちは、だんだんと疲弊して、
たった1色のみの濃淡の味わいには無関心になる。そして、それを味わう感覚を失っていくのですね。
その感覚がもっともマヒしたのが教師ですから、赤と青だけで絵を描いてしまった子の絵を
「この濃淡がいいねえ」
とは思わず、
「なんだこれ、つまんない」
と思ってしまうわけ。
で、余計なことに
「もっと色を使いなさい」
と指示を出す。
ところが、感性が豊かで育っていてするどくて優秀な子は、もうこの濃淡だけで十分に美しいことを知っており、他の色がくるとそれらをすべて台無しにすることを知っていますから、もう他の色は使いたくないわけ。
これがいわゆる、
「評価基準の雑な先生が、繊細な子をみる際に噴き出す矛盾」
です。
専門用語では、
The contradictions when a loose teacher takes care of a highly sensitive children.
略して、CLSCと言います(嘘)。
『雑』の側からは、『繊細』の側が、よく見えないのです。
逆に、『繊細』の側からは、『雑』の側が、すっごくよく見える。もう丸見えです。
だけど、それを言語化することできない。
「雑だねえ」としか、言いようがない。
雑な方は、自分の側に引っ張ろうとしますので、一生懸命に
雑になろう、雑になろう、と声をかけて誘います。うるさいほどに。
で、それがうるさい、といやがっていると、繊細の側もどんどん疲弊して、雑になってしまう。
結局、雑の側が、勝つのです。世の中というのは。
みんなで雑になり合って、「繊細」の価値をなくしていっている。
HSCからみると、それに付き合うのはタイヘンなことですから、
やはりHSCは、しずかに、できるだけ「雑な人々」を刺激しないように、そこからそっと離れるしかない。
学校に来たくない気持ち、なかなか言葉にしがたいけど、そんな感じなのかな、と想像することがあります。
「子どもには、少しずつ与えよ」
と言っている。
これは子どもが自己形成するにあたり、雑(ざつ)な感性を育てるか、繊細(せんさい)な感性を育てるか、という2つの道があり、まあ教育的には、雑よりも繊細が良い、と考えるからでしょうね。
なぜ繊細が良いかというと、『センサーの感度が鋭い方が良い』、と考えるからでしょう。
たとえば温度計が、1の位を基準にして表示されるとしたら、
18度(℃)
とかになる。
それが10分の1の位を基準にしていたら、
18.8度(℃)
とかの表示ができる。
すると、18度よりも実は19度に近いじゃん、という、
より科学的で合理的な事実のとらえ方ができるようになる。
1の位を基準にする子を育てるか、10分の1の位まで知ろうとして感受できる子を育てるか。
それが、雑な子か、繊細な子か、のちがいでしょう。
しかし、大人の側の都合からいうと、
繊細な子を育てるのは、えらい苦労がかかる
ということが分かっています。
繊細な子を育てるのは、繊細でなければならないのです。
雑ではとうてい、つとまらない。
だからなかなか、そうは問屋が卸さない。
なんて言ったって、学校では、35人から40人ですから。
その大人数ををせまい部屋に入れて、いっせいに給食を食べさせ、いっせいに同じような絵を描かせる。で、クーピーの12色とか、絵の具の24色とか、ドバアーッ、と最初に与えます。
だって、細かくていねいになんて、一人ひとりをみてなんか、いられないですもん。
本当は最初は赤だけで、徐々に青を足し、黄色を足し、少しずつその色の味わいを、子どもとともに味わい、言語化しながら、身体で表現しながら、色を繊細に味わいつつ、・・・というのがやりたくても、とうていそこまで手が回らないから、
入学と同時に、サクラクレパス16色、一気にどーん!
です。
サクラクレパスが悪いのでありません。
社会の仕組みとアイデアが、まだ貧困、ということです。
アイデアと知恵が、足りてない、のですな。
で、1年生なのにもう16色で絵を描かせてしまいますが、
16色で描くのにせいいっぱいがんばった子たちは、だんだんと疲弊して、
たった1色のみの濃淡の味わいには無関心になる。そして、それを味わう感覚を失っていくのですね。
その感覚がもっともマヒしたのが教師ですから、赤と青だけで絵を描いてしまった子の絵を
「この濃淡がいいねえ」
とは思わず、
「なんだこれ、つまんない」
と思ってしまうわけ。
で、余計なことに
「もっと色を使いなさい」
と指示を出す。
ところが、感性が豊かで育っていてするどくて優秀な子は、もうこの濃淡だけで十分に美しいことを知っており、他の色がくるとそれらをすべて台無しにすることを知っていますから、もう他の色は使いたくないわけ。
これがいわゆる、
「評価基準の雑な先生が、繊細な子をみる際に噴き出す矛盾」
です。
専門用語では、
The contradictions when a loose teacher takes care of a highly sensitive children.
略して、CLSCと言います(嘘)。
『雑』の側からは、『繊細』の側が、よく見えないのです。
逆に、『繊細』の側からは、『雑』の側が、すっごくよく見える。もう丸見えです。
だけど、それを言語化することできない。
「雑だねえ」としか、言いようがない。
雑な方は、自分の側に引っ張ろうとしますので、一生懸命に
雑になろう、雑になろう、と声をかけて誘います。うるさいほどに。
で、それがうるさい、といやがっていると、繊細の側もどんどん疲弊して、雑になってしまう。
結局、雑の側が、勝つのです。世の中というのは。
みんなで雑になり合って、「繊細」の価値をなくしていっている。
HSCからみると、それに付き合うのはタイヘンなことですから、
やはりHSCは、しずかに、できるだけ「雑な人々」を刺激しないように、そこからそっと離れるしかない。
学校に来たくない気持ち、なかなか言葉にしがたいけど、そんな感じなのかな、と想像することがあります。