2月になり、来年度の人事が水面下で動いていることがなんとなく分かる。
わたしも校長から内緒で手招きされたり、教頭から
「どう思います?」とか聞かれたり、
あれこれと話がくる。(ぜんぶ秘密)

ところで、校長とか管理職というのは大変だとつくづく思う。
先生たちの指導能力を評価しなければならないから。
ところがそんな能力は、ぜったいに評価なんてできっこない。
20年連れ添った妻のことでも、まったく分からないことだらけなのに。

先生は子どもの能力を正当に評価しているだろうか、ということを評価するのが校長だ。
子どもの能力を正当に評価する先生を正当に評価する校長の能力を正当に評価することになっているのが教育委員会、ということになる。

こんな芸当がふつう、できるわけがないことくらい、自明でありましょう。

忘れ物が多いですね、というのが子どもを評価することにはならないことくらいは、みなさん分かります。だから、保護者が懇談会で

「先生、うちの子は忘れ物が多くてすみません。どうしたらいいでしょう?」

というお母さんに向かって、たいていの先生たちは

「ああ、鉛筆がなくても、先日Aくんは、字を書いてましたからサバイバルでも生きていけるのはこういう子だと思って感心しました」

ということになります。
お母さんは目を丸くして、いったいどうやって書いたのですか?とおっしゃる。
こういうお母さんは、おそらく子どものころに鉛筆が無い状態では字は書けっこない、というあきらめの人生を送ってきたのでしょう。ところが昨今の子どもはあきらめません。なんてったって、平成生まれですから。強いことこの上ない。

鉛筆の芯が落ちていたのを、鉛筆削りの削りカスの入った箱の中から見つけて、その芯を上手にテープでノートをやぶいた紙きれにくくりつけ、自家製の筆記用具をつくり、それで算数はキチンとこなすわけです。このくらいのこと、朝飯前ですよ。平成の子は!

というか、わたしのクラスは隣の子が鉛筆なら貸してくれるから、それで間に合うわけね。
「友達に借りてはいけません」ということになっている学級でも、上記のような自作の筆記具でのりこえていくわけです。

最悪、鉛筆がなければ、ノートテイクをしなければいい。
案外と、書かなくても、集中して覚えようとすれば覚えられるものです。覚悟さえ決めれば。

ハンカチを忘れた子が、窓から手を突き出して、高速に振っていましたが、あれもなかなかのアイデアだし、校庭をマラソンしてくれば手のひらなんて乾いちゃいます。
わたしが昭和の時代にそんなふうだったから、今でも忘れものをした子を叱る気にはなれません。

太平洋戦争のころ、ある特攻隊の飛行機が、爆弾を忘れて(落ちて)しまい、途中から引き返したそうです。
それで帰ってきたところでちょうど飛行機のエンジンがかからなくなり、命が助かったそうです。
忘れてはいかん、というの、あやしいな、と思います。

というか、学校が

「忘れ物をすること」

について、指導できると思っているのも勘違いだし、
指導する事柄だと保護者がもし考えているのだとしたらそれも勘違いだし、
忘れ物がよくないと思っている世間の考え方も勘違いが含まれているだろうし、

子どもは忘れ物をすることで、実は心の奥がわくわくしていて、
「よし、この困難をどうやってのりこえようか!」となっているので、
そのハリウッド的な盛り上がりを、教師が口をはさんでどうのこうのしようというのは
本当に余計なことだと思います。

人間社会が、忘れ物をしないようにステップアップしていく仕組みなのだとしたら、
なぜ人として完成されたはずのおじいさんやおばあさんが、しょっちゅう忘れ物をするんでしょう。
おそらく、ステップアップ、という「とらえ方」自体に、なにか人間の根源的な間違いやおかしさ
が含まれているのかも。

指導とはステップアップだ、という考え方をやめたら、わりと
学校というのは、もっといきいきしてくるのではないかと思います。
もちろん、その場合、忘れ物というものは、
忘れる時は忘れる、忘れなかったら忘れなかった、というだけのことです。
それについて論評すること自体が、なにか大事なことを忘れている、というパラドックスなわけです。

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