子どもは宝だということに、なぜ自分自身では気づくことがないのだろうか。

クリスマスに、ばあばからプレゼントが届いた。
200km離れた町に住むばあば。
めったに会えないから、クリスマスにはプレゼントを贈ってくれる。
ばあばは、「孫は宝だから、孫には」ということで、いろいろと心配もしてくれるし、なんやかんやとお見舞いやらプレゼントやらを計画し、送ってくれる。

ところがなぜか、孫であるわたしの息子は、自分が宝である、ということに気づいていないようなところがある。これはいったい、なぜであろう。
孫であるわたしの息子は、

「まあ、なんだかいろいろと、ぼくのために買ってくれたりしてくれるが」

基本的に、遠くに離れて暮らしている人、という認識なのだろう。
ふだんは意識にのぼらないけど、という、いささか薄めの、頼りないイメージらしい。
自転車を買うだとか、お金が要る、という場合には
「ばあちゃんにちょっと電話してみよう」
となるが、それ以外には、特に、という雰囲気。
これでは、ばあばが、報われないではないか!

考えてみれば、わたし自身も父母の父母、祖父母からすると孫であったわけで、
孫であったためにあれこれと心配をかけたり、寵愛を受けたりしたのであろうが、
あまり自分が
「宝であった」
という自覚は、薄かった。反省しなければならない。
しかし、いったい、なぜであろうか。

いや、孫だけが宝なのではない。子どももそうだ。
わたしももう50歳になり、自分の子どももある程度大きくなったために、
「わが子は宝じゃのう」
と思うことは、確かな実感を伴って理解できる。
背が伸びた、とか、自転車に乗れるようになった、とか、思い返せばそのたびに、親としての喜びを感じて生きてきた。
赤ん坊はくてくて寝ているだけのようだが、そのうちに立ち始め、歩きはじめて、あれこれ一人前にできるようになってくる。小さなことでも変化があれば、そのつど、「子どもというのは、宝じゃなあ」と身にしみたものだ。

ところが、宝だと思われている側の、その当人は、自覚が薄いのであります。
なぜかだろうか。

思うに、自己評価が低いからではないだろうか。
子どもなりに、自分は十分だとは思っていないからではないか。
はやく一人前にならなきゃ、と思っているからではないだろうか。
自分自身が、自分自身を宝だと認識することが難しいのは、
「一人前になったらはじめて価値がでてくるのであって、それまではまだ半端モノである」
という考え方が根深いからではないだろうか。

これは個々人によって、子どもによって、感じ方は異なるのが当然だが、それでも今の社会の雰囲気にかなり影響されている部分も大きいだろう。
つまり、日本文化の特徴なのでは?自己評価が低くなりがちなのは・・・。

成人すると一人前になって、はじめて世の中に価値が認められるが、そうでなければまだ価値は無い、という考え方が、日本の歴史には近代以後も、まだ根深く残ってしまっているからかもしれない。

ところが実際には、生まれたばかりでも価値があり、その価値は実は老人となんの差もない。
それどころか、むしろ一生懸命に悪事を働く盛年の男性よりも、なにも周囲をまきこまず、圧政を強いない赤ん坊や一線を退いた老人の方が、社会的にはより多くの人にとって良いわけで。

1)周囲をたくさん幸せにする働き者

2)周囲をほんの少し幸せにする者

3)なにもしないでにこにこしている者

4)周囲に迷惑をかけるがとくにその迷惑の働きの度合いが少ないもの

5)周囲に迷惑をかけるがとくにその迷惑の度合いが多い働きもの

6)極悪の政治家で強圧的に多くの家族に迷惑をかける者

上記のようにランク付けするとしたら、ヒトラーのように戦争を引き起こしたり、虐殺を行うのが最悪のランクであり、それをしないだけでも多くの人はマシである。何も働かないかのように見える生まれたての赤ん坊の方がはるかに人類として周囲の幸せに貢献している。

上のランク表の1と2ではなくとも、少なくとも3であるだけでも、上位である。
これからすると、子どもたちは、もっと、自分が宝だ、という自覚を持ってよいと思われる。
小学生は全員、レベル3よりマシでしょうね。
大人になると、さらに劣化して、レベル4、あるいは悪人レベルの5、というのが出てくる。
私利私欲で周囲の人々を巻き込み、それを当然と思い込んでいるパワハラ体質の強欲で傲慢な大人がさらにその下の【レベル6】だ。こう考えると、何割かの大人よりも、だんぜん子どもの方が世のためになってる。

子ども自身は、これをどうとらえるだろうか。興味がわく。

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