世界中がピンチだ。
ピンチをチャンスにする。
どうしてそう思うかというと、無理がでてきた、ということは、
「変えろ」のサインだと思うから。
なにを変えるかというのが難しい。
「変えなきゃいかん」
と気負ってがんばったら、さらに悪くなる、ということもある。
これまでの日本はそういうことが多かった。
ひとつの答えらしきものを求めて、それがわかったと思ったら突進する。
民営化が正解だと頑張ってみたらそうでもなかった。
JRは民営化で成功した!民営化しかない!と思っていた時期が長い。
給食も民営化するとサービスが向上するはずだと思ったら、ちがっていた。
給食が民営化されたとたんにコストカットで悲惨な給食になっちゃったとか。だれも食べない給食の残飯を捨てるのにすごいコストがかかってるとか。企業はその処理費用もまた給食費に寄せるから、ますますコストカットされて・・・
ほかにも、民営化が正しいと思って突き進んだら、市民病院がつぶれて医療が崩壊とか。
つまり、「勤勉なバカほどはためいわくなものはない」という格言通りになることも多かった。
大事なのは、ひとつの答えをみつけた、と思うな、ということだ。
それが答えだと思っても、考えることをやめてはいけない。
教科書に書いてあるからとか、えらい先生が言ってるからで「正解」と決めてはいけない。
そうかもしれないし、そうでないかもしれない。
考えることをやめると、人間社会というのはとたんに停滞する。
ソ連が崩壊したのも、マルクスレーニン主義だけが正しいとしたからだし、
江戸幕府も朱子学が国学であり、唯一の正しい学問だとしたとたんに停滞した。
蘭学が入ってこなかったら、さらに何十年も停滞しただろう。
同じように儒教だけが正解と思えば停滞するし、そんなのは歴史の枚挙にいとまがない。
人間というのは、たった一つのドグマに依存するということを、してはいけない存在らしい。
コロナで学校も毎日消毒している。
机も水道の蛇口も。
教室には常にアルコール消毒液がおかれているし、給食中はだれもしゃべらないことになっている。
子どもたちもけなげに頑張っている。
これまでのことを思い出すと、大きな声でおかわりのじゃんけんなどしていた。
それが今はできないが、おかわりじゃんけんをしていた時代がなつかしいとさえ、感じる。
もう、そのころには戻れないだろう。
学校は完全に変わった。
これからは、学校がひとを集められなくなるかもしれない。
そうなる前に、児童が自分で追究していく学習スタイルをとるしかない。
学校主導ではなく、個が確立して学ぶスタイルだ。
まだ個が確立しているとはいえない児童だからこそ、そこを支える。
もう、教科書は半分でいいのかも。
コロナに合わせて、教科書の改訂も必要かもしれない。
あるいは、教科書を全部やらんならん、という思い込みを外すか。
そのどちらかが、すでに必要になってきているのかも。
ピンチをチャンスにする。
どうしてそう思うかというと、無理がでてきた、ということは、
「変えろ」のサインだと思うから。
なにを変えるかというのが難しい。
「変えなきゃいかん」
と気負ってがんばったら、さらに悪くなる、ということもある。
これまでの日本はそういうことが多かった。
ひとつの答えらしきものを求めて、それがわかったと思ったら突進する。
民営化が正解だと頑張ってみたらそうでもなかった。
JRは民営化で成功した!民営化しかない!と思っていた時期が長い。
給食も民営化するとサービスが向上するはずだと思ったら、ちがっていた。
給食が民営化されたとたんにコストカットで悲惨な給食になっちゃったとか。だれも食べない給食の残飯を捨てるのにすごいコストがかかってるとか。企業はその処理費用もまた給食費に寄せるから、ますますコストカットされて・・・
ほかにも、民営化が正しいと思って突き進んだら、市民病院がつぶれて医療が崩壊とか。
つまり、「勤勉なバカほどはためいわくなものはない」という格言通りになることも多かった。
大事なのは、ひとつの答えをみつけた、と思うな、ということだ。
それが答えだと思っても、考えることをやめてはいけない。
教科書に書いてあるからとか、えらい先生が言ってるからで「正解」と決めてはいけない。
そうかもしれないし、そうでないかもしれない。
考えることをやめると、人間社会というのはとたんに停滞する。
ソ連が崩壊したのも、マルクスレーニン主義だけが正しいとしたからだし、
江戸幕府も朱子学が国学であり、唯一の正しい学問だとしたとたんに停滞した。
蘭学が入ってこなかったら、さらに何十年も停滞しただろう。
同じように儒教だけが正解と思えば停滞するし、そんなのは歴史の枚挙にいとまがない。
人間というのは、たった一つのドグマに依存するということを、してはいけない存在らしい。
コロナで学校も毎日消毒している。
机も水道の蛇口も。
教室には常にアルコール消毒液がおかれているし、給食中はだれもしゃべらないことになっている。
子どもたちもけなげに頑張っている。
これまでのことを思い出すと、大きな声でおかわりのじゃんけんなどしていた。
それが今はできないが、おかわりじゃんけんをしていた時代がなつかしいとさえ、感じる。
もう、そのころには戻れないだろう。
学校は完全に変わった。
これからは、学校がひとを集められなくなるかもしれない。
そうなる前に、児童が自分で追究していく学習スタイルをとるしかない。
学校主導ではなく、個が確立して学ぶスタイルだ。
まだ個が確立しているとはいえない児童だからこそ、そこを支える。
もう、教科書は半分でいいのかも。
コロナに合わせて、教科書の改訂も必要かもしれない。
あるいは、教科書を全部やらんならん、という思い込みを外すか。
そのどちらかが、すでに必要になってきているのかも。