だれでも、そうなる可能性がある。
それが、「事実が分からなくなる」ということ。
考えてみると、だれも事実がこうだ、ということが言えない。
人間ならだれでも、事実を事実と断言することができない。
人間はどうしても「脳」でものを見たり聞いたり判断する。
その「脳」がエラーを起こしている可能性があるからだ。
機械人間でない限り。(あ、機械も故障するか)
怖いのは、エラーを起こしやすくする方法があることだ。
脳は、自分を『否定する』ことで、足踏みをする。
これは、ただしい認知に戻ろうとしての正常な動作である。
たとえば、二度見。
人間はだれでもぎょっとして二度見することがある。
これは脳がとっさに映像を処理しきれず、確かめようとして視覚情報に再度頼ること。
脳はとっさに一時的な処理を行うが、脳のどこかで
「そんなはずがない」
という理性と論理的な思考が働く。
そこで、いったん、足踏みをする。
自分が視覚をフルに使って得た情報に自信をもってもいいのだが、いったん「否定」し、足踏みをするのだ。だから、二度、見ようとする。情報を脳内に構成しなおすためにもう一度、情報をインプットしないといけないから、二度見るのだ。
しかし、これが頻繁になってくると、自分の判断能力が衰えてきていると思うか、
あるいは、自分には判断する能力が欠けている、というふうに考えるようになる。
すると、
現実に起きている事実と 自分の脳内でそうだろう、と思うこととが、乖離しているように感じる。
これがたまにある程度だったら、
「あちゃー、ボケとったなー」
「あれ、やっちゃった。思い込んでたな」
で終わるかもしれないが、頻繁にあるとそうはいかない。
「事実が分からない」
という極端な不安心理が襲うようになる。
外国の映画で、悪い奴が主人公の精神状態を追い詰めるために
「あれ?車を変えたのですか?」
という主人公を憐れむように見ながら、
「なにをおっしゃっているのです?わたしはもうずっと前からこの車ですよ」
という。
「ええ?たしかつい先日までは〇〇に乗っていたはず・・・」
「どうしたのですか。最近のあなたはおかしいですよ」
という芝居を打つ。
悪い奴の仲間がこうしたことをどんどんと展開し、しだいに主人公が追い詰められていくわけ。
事実とは何かは分からない。
自分の脳がこうとらえた、ということは言える。
しょせん、脳がこの程度、という納得があれば、悪い奴にだまされることもない。
だって、悪い奴の脳だって、この程度なんだもの。
「あなたの認知がゆがんでいるということもある」
と言い返せるようになっておかないと。
「あれ?車を変えたのですか?」
という主人公を悪い奴が憐れむように見ながら、
「なにをおっしゃっているのです?わたしはもうずっと前からこの車ですよ」
と言ったとしたら、
そう芝居を打つ悪い奴に向かって
「そうですか。わたしたちの脳はお互いに事実に到達できませんからね。まあそれらしい証拠がまたぞろ集まってきたところで、どうもそうらしい、ということにしておく程度にしておきましょう。あなたもわたしも、お互いに思い込んでいるのでしょうからな、ははは」
と煙に巻いてほしい。
さて、なんでこんなことを書くかというと、
教室でものがなくなった、という事件が起きたからです。
まあ消しゴム一つなんですがね。
MONO消しゴムのでかいやつ。
それと、同じく筆箱に入っていたはずの京都のキーホルダー。
それが一度に無くなって紛失し、
「だれかが盗ったのでは」
ということになった。
捜索⇒該当児童の家庭への連絡⇒子どもたち全員の荷物調べ⇒全家庭への連絡通知と家庭内での捜索依頼⇒(授業をつぶして)クラス内での聞き取り⇒(授業をつぶして)全員が休み時間に何をしていたかの調査⇒(授業をつぶして)その調査に嘘がないかどうかのさらなる調査⇒(授業をつぶして)他のクラスの子たちへの聞き取り調査⇒キーホルダーを持ってきた子の家庭への謝罪連絡、と進むのが予期されました。
ところが、本人が思い出してくれた。
「あ、そうだ。お姉ちゃんに言われてキーホルダー、外したんだった。MONO消しゴムも、小さいのに替えたんだった」
これで、上記のように授業をつぶした捜査をしなくて済みました。
で、上記のような『認知』の授業をしておいた方がいいのでは、と思うようになりました。
その子が素直に言ってくれたからよかったですが。
意地を張って、
「ぜwったいに学校に持ってきてた!!」
とか
「だれかが盗った!!」
とか言われた日にゃ・・・
誰だって認知にはゆがみが生じております。
その証拠に、風邪をひいたら、コロナでなくとも嗅覚が落ちるそうですぜ。
人間なんて体調の変化ですぐに認知がゆがんでしまって、昨日とちがってくるんすからナ。
それが、「事実が分からなくなる」ということ。
考えてみると、だれも事実がこうだ、ということが言えない。
人間ならだれでも、事実を事実と断言することができない。
人間はどうしても「脳」でものを見たり聞いたり判断する。
その「脳」がエラーを起こしている可能性があるからだ。
機械人間でない限り。(あ、機械も故障するか)
怖いのは、エラーを起こしやすくする方法があることだ。
脳は、自分を『否定する』ことで、足踏みをする。
これは、ただしい認知に戻ろうとしての正常な動作である。
たとえば、二度見。
人間はだれでもぎょっとして二度見することがある。
これは脳がとっさに映像を処理しきれず、確かめようとして視覚情報に再度頼ること。
脳はとっさに一時的な処理を行うが、脳のどこかで
「そんなはずがない」
という理性と論理的な思考が働く。
そこで、いったん、足踏みをする。
自分が視覚をフルに使って得た情報に自信をもってもいいのだが、いったん「否定」し、足踏みをするのだ。だから、二度、見ようとする。情報を脳内に構成しなおすためにもう一度、情報をインプットしないといけないから、二度見るのだ。
しかし、これが頻繁になってくると、自分の判断能力が衰えてきていると思うか、
あるいは、自分には判断する能力が欠けている、というふうに考えるようになる。
すると、
現実に起きている事実と 自分の脳内でそうだろう、と思うこととが、乖離しているように感じる。
これがたまにある程度だったら、
「あちゃー、ボケとったなー」
「あれ、やっちゃった。思い込んでたな」
で終わるかもしれないが、頻繁にあるとそうはいかない。
「事実が分からない」
という極端な不安心理が襲うようになる。
外国の映画で、悪い奴が主人公の精神状態を追い詰めるために
「あれ?車を変えたのですか?」
という主人公を憐れむように見ながら、
「なにをおっしゃっているのです?わたしはもうずっと前からこの車ですよ」
という。
「ええ?たしかつい先日までは〇〇に乗っていたはず・・・」
「どうしたのですか。最近のあなたはおかしいですよ」
という芝居を打つ。
悪い奴の仲間がこうしたことをどんどんと展開し、しだいに主人公が追い詰められていくわけ。
事実とは何かは分からない。
自分の脳がこうとらえた、ということは言える。
しょせん、脳がこの程度、という納得があれば、悪い奴にだまされることもない。
だって、悪い奴の脳だって、この程度なんだもの。
「あなたの認知がゆがんでいるということもある」
と言い返せるようになっておかないと。
「あれ?車を変えたのですか?」
という主人公を悪い奴が憐れむように見ながら、
「なにをおっしゃっているのです?わたしはもうずっと前からこの車ですよ」
と言ったとしたら、
そう芝居を打つ悪い奴に向かって
「そうですか。わたしたちの脳はお互いに事実に到達できませんからね。まあそれらしい証拠がまたぞろ集まってきたところで、どうもそうらしい、ということにしておく程度にしておきましょう。あなたもわたしも、お互いに思い込んでいるのでしょうからな、ははは」
と煙に巻いてほしい。
さて、なんでこんなことを書くかというと、
教室でものがなくなった、という事件が起きたからです。
まあ消しゴム一つなんですがね。
MONO消しゴムのでかいやつ。
それと、同じく筆箱に入っていたはずの京都のキーホルダー。
それが一度に無くなって紛失し、
「だれかが盗ったのでは」
ということになった。
捜索⇒該当児童の家庭への連絡⇒子どもたち全員の荷物調べ⇒全家庭への連絡通知と家庭内での捜索依頼⇒(授業をつぶして)クラス内での聞き取り⇒(授業をつぶして)全員が休み時間に何をしていたかの調査⇒(授業をつぶして)その調査に嘘がないかどうかのさらなる調査⇒(授業をつぶして)他のクラスの子たちへの聞き取り調査⇒キーホルダーを持ってきた子の家庭への謝罪連絡、と進むのが予期されました。
ところが、本人が思い出してくれた。
「あ、そうだ。お姉ちゃんに言われてキーホルダー、外したんだった。MONO消しゴムも、小さいのに替えたんだった」
これで、上記のように授業をつぶした捜査をしなくて済みました。
で、上記のような『認知』の授業をしておいた方がいいのでは、と思うようになりました。
その子が素直に言ってくれたからよかったですが。
意地を張って、
「ぜwったいに学校に持ってきてた!!」
とか
「だれかが盗った!!」
とか言われた日にゃ・・・
誰だって認知にはゆがみが生じております。
その証拠に、風邪をひいたら、コロナでなくとも嗅覚が落ちるそうですぜ。
人間なんて体調の変化ですぐに認知がゆがんでしまって、昨日とちがってくるんすからナ。