幼稚園の先生と懇談する機会があった。
ある年配の先生が、
「かくれんぼ、今の子たちはやりたがらないですからね」
というセリフがあった。
話はいろんなふうにそこから変わっていったのですが、
わたしはそれが妙に気になりました。
だって、かくれんぼ、楽しいじゃないですか。
どうしてやらないんでしょうかね。
その先生が言うには、
「かくれても、すぐに出てきちゃうんですよ。隠れているのがいやというか、無視されているような気がしてしまうのではないかと思いますね」
とのこと。
なるほど。ほっとかれている感じがしてしまうのか。
無視されているんじゃないか、ということが気になると、もうすぐに「ここだよ」と出ちゃうらしい。
そして、もう一つは、鬼になった子も、ぜんぜん気乗りがしないそうである。
「鬼になった子も、ぜんぜん探そうとしないし、ただ突っ立っているだけで何もしない子もいます」
これは、いつも探し物をするとき、親が探してしまうか、もしかしたら「探し物」が悪いことのようになっていて、ものをどこかへやってしまって探すとなると、たぶん嫌な感じで、家じゅうの雰囲気が悪くなるような感じで、探すからかもしれない、と言っていた。
「つまり、探すのは人生のロス、という感じでしょうか」
そういうことを学習していれば、そりゃあ、他の子を探すのなんて、苦痛にしかならないよ。
その懇談の場では、その程度のことで終わったのですが、ね。
わたしは、どうもそこが腑に落ちずに、帰りの車の運転をしながらも、けっこう長い間、このことを考え続けました。
『探し物』にたとえ悪いイメージがあったとしても、かくれんぼがきらいになるかなあ。
だって、物がなくて困っていて、それで親に怒られながら探すのと、
こうやって仲の良い友達と隠れあって、お互いにそれを探し合うのとでは、まるで雰囲気も違うように思うんだけど。
鬼になって突っ立ったまま、何もしなかった子って、要するにルールがわかってなかっただけなんじゃないのかな。
・・・まあ、それでも気にはなるね。
だって、隠れている子を探そうね、といって、あっちかな?こっちかな、と探すんだよってことくらい、どんだけぼーっとした子だって、わかると思う。
幼稚園の先生は、こうも言っていた。
園庭でかくれんぼが苦手のようだから、園のプレイルームに跳び箱だとかいろいろと隠れる場所までつくってやっても、みんなそれほど熱をあげない、のらしい。
「要するに、見えないものを探す、ということは、昭和の世代ならファンタジーであり、冒険であり、発見の喜びをもたらす遊びだったのですが、令和時代のあたらしい人類にとっては、なにかを探すなんてことは、興味関心の湧かないことなんですかね」
・・・だって。
ただ、かったるい、というだけか?
ふりかえると、隠れる、ということは、かなりの知的な活動であったように思う。
わたしが小学校3~4年生にかけて、まる2年間かけて、毎日のように遊んだ「ポコペン」という遊びは、ジャンルとしてはかくれんぼの発展形であった。
そして、ものすごく高度な、狩猟感覚、逃亡感覚、跳躍、すり抜け、だまし、などのテクニックを磨かなければならなかった。なんとも野性味のあふれるスポーツであった。
狩るか、狩られるか。
仲間を信頼するのか、それとも裏切るのか。
本気で悔し泣きをし、仲間との意思疎通がうまくいったときは、とびあがって喜んだ。
現代っ子にとっては、そんな古典芸能は古臭いばかり。
デジタルで遊べばそんな苦労はしなくてもいいわけだ。
池田さんちのおばさんはうるさいから、台所の横を通り抜けるときには音を立ててはいけない。
しかし、基地に行くには池田さんちの台所の下の抜け道を通るのがもっとも速い。
だから、決定的な勝利をおさめるには、義経レベル、ひよどり越えレベルの精神力と胆力が必要であった。
池田のおばちゃんに怒られるか、それとも仲間の窮地を救うのか・・・。
まあ、本当に苦労したからなあ。
おかげで自分の足が遅いことはよく自覚できたし、足の速いSくんのことを尊敬できた。
あと3cm動けば、敵に見つかる、という、「自分のつま先が敵から見えているかどうか」の判断も、的確にできるようになった。
その辺の身体感覚のするどさを、今さら力説したとしても。
今のデジタル社会には、そんなの関係ないものね。
一人に一つ、アイパッドが配布される時代だもの。
かくれんぼなんて、そのうち、急速に、気が付いたら「昔の遊び」になっちゃってるだろうネ。
「なにそれ。その遊びのどこが、おもしろいんですか」
とか、令和生まれの子から、冷静に指摘されそう。
で、悲しいのは、それをうまく解説したり表現したりして、伝える言葉を、われわれがあまりもってなさそうなこと。昭和の言葉でそれを言っても、その言葉そのものが伝わらないだろうし、もはや「冒険」という言葉そのものが、デジタル庁の時代には、画面の中のことだろうし・・・。

ある年配の先生が、
「かくれんぼ、今の子たちはやりたがらないですからね」
というセリフがあった。
話はいろんなふうにそこから変わっていったのですが、
わたしはそれが妙に気になりました。
だって、かくれんぼ、楽しいじゃないですか。
どうしてやらないんでしょうかね。
その先生が言うには、
「かくれても、すぐに出てきちゃうんですよ。隠れているのがいやというか、無視されているような気がしてしまうのではないかと思いますね」
とのこと。
なるほど。ほっとかれている感じがしてしまうのか。
無視されているんじゃないか、ということが気になると、もうすぐに「ここだよ」と出ちゃうらしい。
そして、もう一つは、鬼になった子も、ぜんぜん気乗りがしないそうである。
「鬼になった子も、ぜんぜん探そうとしないし、ただ突っ立っているだけで何もしない子もいます」
これは、いつも探し物をするとき、親が探してしまうか、もしかしたら「探し物」が悪いことのようになっていて、ものをどこかへやってしまって探すとなると、たぶん嫌な感じで、家じゅうの雰囲気が悪くなるような感じで、探すからかもしれない、と言っていた。
「つまり、探すのは人生のロス、という感じでしょうか」
そういうことを学習していれば、そりゃあ、他の子を探すのなんて、苦痛にしかならないよ。
その懇談の場では、その程度のことで終わったのですが、ね。
わたしは、どうもそこが腑に落ちずに、帰りの車の運転をしながらも、けっこう長い間、このことを考え続けました。
『探し物』にたとえ悪いイメージがあったとしても、かくれんぼがきらいになるかなあ。
だって、物がなくて困っていて、それで親に怒られながら探すのと、
こうやって仲の良い友達と隠れあって、お互いにそれを探し合うのとでは、まるで雰囲気も違うように思うんだけど。
鬼になって突っ立ったまま、何もしなかった子って、要するにルールがわかってなかっただけなんじゃないのかな。
・・・まあ、それでも気にはなるね。
だって、隠れている子を探そうね、といって、あっちかな?こっちかな、と探すんだよってことくらい、どんだけぼーっとした子だって、わかると思う。
幼稚園の先生は、こうも言っていた。
園庭でかくれんぼが苦手のようだから、園のプレイルームに跳び箱だとかいろいろと隠れる場所までつくってやっても、みんなそれほど熱をあげない、のらしい。
「要するに、見えないものを探す、ということは、昭和の世代ならファンタジーであり、冒険であり、発見の喜びをもたらす遊びだったのですが、令和時代のあたらしい人類にとっては、なにかを探すなんてことは、興味関心の湧かないことなんですかね」
・・・だって。
ただ、かったるい、というだけか?
ふりかえると、隠れる、ということは、かなりの知的な活動であったように思う。
わたしが小学校3~4年生にかけて、まる2年間かけて、毎日のように遊んだ「ポコペン」という遊びは、ジャンルとしてはかくれんぼの発展形であった。
そして、ものすごく高度な、狩猟感覚、逃亡感覚、跳躍、すり抜け、だまし、などのテクニックを磨かなければならなかった。なんとも野性味のあふれるスポーツであった。
狩るか、狩られるか。
仲間を信頼するのか、それとも裏切るのか。
本気で悔し泣きをし、仲間との意思疎通がうまくいったときは、とびあがって喜んだ。
現代っ子にとっては、そんな古典芸能は古臭いばかり。
デジタルで遊べばそんな苦労はしなくてもいいわけだ。
池田さんちのおばさんはうるさいから、台所の横を通り抜けるときには音を立ててはいけない。
しかし、基地に行くには池田さんちの台所の下の抜け道を通るのがもっとも速い。
だから、決定的な勝利をおさめるには、義経レベル、ひよどり越えレベルの精神力と胆力が必要であった。
池田のおばちゃんに怒られるか、それとも仲間の窮地を救うのか・・・。
まあ、本当に苦労したからなあ。
おかげで自分の足が遅いことはよく自覚できたし、足の速いSくんのことを尊敬できた。
あと3cm動けば、敵に見つかる、という、「自分のつま先が敵から見えているかどうか」の判断も、的確にできるようになった。
その辺の身体感覚のするどさを、今さら力説したとしても。
今のデジタル社会には、そんなの関係ないものね。
一人に一つ、アイパッドが配布される時代だもの。
かくれんぼなんて、そのうち、急速に、気が付いたら「昔の遊び」になっちゃってるだろうネ。
「なにそれ。その遊びのどこが、おもしろいんですか」
とか、令和生まれの子から、冷静に指摘されそう。
で、悲しいのは、それをうまく解説したり表現したりして、伝える言葉を、われわれがあまりもってなさそうなこと。昭和の言葉でそれを言っても、その言葉そのものが伝わらないだろうし、もはや「冒険」という言葉そのものが、デジタル庁の時代には、画面の中のことだろうし・・・。
