ものごとをスッと見通す。
そのものの実際の価値を正しく理解できる。
そういう能力を身につけたいと思う人は多いのではないか。
わたしもそうだ。

子どもの実際の姿を知りたいし、学びたい。
その子のユニークさを見たいし、わかりたいし感じていたい。

AをAとみる、ということくらい、むずかしいことはない。
まわりがみんな、AをBと言っていた場合、それをAとみる人が何人いるだろうか。

あるいは、周囲の人の多くがすばらしい、と断じたものを、
自分にとっては正直、どうなのか、と言えるかどうか。

あの人がいい、と言った。
新聞でもいい、と書いてある。
テレビでも人気のある芸人さんが良いとほめていた。
それを、自分としてはこうだ、と言えるかどうか。

自分は、周囲のみんなが「良い」とほめたものを、どうとらえているのだろう。
良い、というのが、ただの印象・感想であると、どれだけ冷静にとらえているだろう。
AをAとみる、ということがいかに大変か。

わたしがAだ、と思ったのは、言ってみればただそこから受けた印象を語っているにすぎない。
「おれはAだと思うなあ」
事実は印象をとりさった部分のことだから、「Aだと思う」という以外のところに、事実はある。

すると、子どもの行動や様子を見ていて、「印象以外」をどうくみとるのか。
教師は子どもの事実実態には、なかなか迫ることができない。

たった一つ、有効な手段がある。
それは、当人が、自分について語る、その言葉である。
その言葉が、事実にかなり近いのではないか、とみる。
そのくらいしか、分からない。

本人が、自分について、こうではないか、という遅々としたところにしか、
正しい道の進み方がない。

そこを力強く歩もうとする際に、ほんの少し、周囲の大人として
「こう見えるけどどうか」「ここが良さだと思うがどうか」くらいしか言えない。

そろそろ評価の時期が近い。
評価とはどういうものか。
価値があるかどうか。←そこには主観しか存在しない。

本当に、子どものことなんて、わかりようがない。
だから安心できるし、だから救われる。
第一、他人に分かられて、たまるか、ということ。
自分でも自分のことなんて、ぜったいによく分からないのに。

chou-cho