今朝、一年生の子が

「ねえ、なまえ、なんていうの」

と聞いてきた。

ため口、である。
いや、あなたとわたしは、タメではない。かなり、離れている。
おそらく、あなたの母親や父親よりもわたしの方が年上であるぞ。

ところが、一年生の子は、

「ねえ、これ折って」

とか、

「こっちじゃない。あっちだ」

などと、わたしをタメであるかのように、扱う。


わたしは、敬語って何だろう、といつも考えている。
敬語でなくてはならん!とまことしやかに言う人も多いが、わたしは敬語でなくても平気である。

この、敬語でなくても平気、というのは、いつからか身につけてしまった私の思考癖で、これはもう、「癖=(へき)」である以上、変えがたいものだ。

だから、一年生が敬語を使わずわたしとしゃべっているのが、なんとも心地よい。
これはもう、癖(へき)だから、仕方がない。

癖(へき)だから、敬語抜きが、心地よい。
世間には申し訳ないが、気分がいい。

周りの先生は、
「こら。ていねいな言葉で言いなさい」
と指導している。

それはそれでいいが、相変わらずその少年とわたしは、タメで話をする。
私「どうする。これ、そんなに飛ばんぞ」
子「じゃ、こっち折れば」
私「そんなに折ったら飛行機じゃなくなる」
子「棒みたいになった」
私「ただの、紙の棒だな、それは」

日本中から、世間から、いっさいの『敬語』がなくなったら、どうなるだろうか。
おそらく、そのくらいの変化が、今、世の中に起きていると思う。

コロナウイルス騒ぎで、戦々恐々としている現代日本。
あなたを感染させない、というのと、自分を感染させない、というのが、これほど如実に同意義になる、わかりやすい例がなかったと思う。

つまり、わたしとあなた、は、如実に同一価値である。

同一価値が、お互いを敬うのは自然だから、自然な流れで敬語が生まれたのだろう。
と考えれば、敬語には本当の愛が詰まっている。

しかし、「わたしに向かって敬語を使わないとは何事だ!」と王様や先生が怒るとなったら、それはあんた、ちがうだろう、と言ってやらねばならない。

大事なのは、あくまでも、自然さ、ということだ。
お互いが、お互いを、『同一価値』とわかりぬいてからの、「しぜんさ」が。
幼子も老人も、人として、個人の尊厳の価値は、同じであるわけだから。(←世界人権宣言より)

しかし、おたがいが本当の本当に、心底尊敬しあったら、敬語は消滅する気もするね。しぜんさ、という点で、タメの方がちょっと分があるかな。

↓ Universal Declaration of Human Rights.
Universal Declaration of Human Rights