「まさか」
口をついて、出た。

嫁様も何度も「まさか」とつぶやいている。
志村けんさんが亡くなった。
昭和の小学生は8時になるとわくわくして、テレビの前に座ったね。
一家だんらんが、そこから生まれた。

まさか、まさか。
人生は、まさかの連続だ。
今、世界が騒然としている様子も、毎日ながれてくるコロナのニュースも、
4月に学校が順当に始まるのかどうか危ぶんでいる今の学校の様子も、
みんな、「まさか」だ。
まさか、こんなになるとは、思わなかった。
「まるで、映画を見ているようだ」はテレビのコメンテーターの言葉だか、本当にそう。

人生の3つの坂のスピーチは有名だけれど、上り坂、下り坂、3つめの『まさか』がこんなに毎日のようにつぶやかれている時代は、人生でも初めてだと感じる。

2年前に父が亡くなったときも、
「まさか」
という感じがした。
早すぎる、と思った。もう少し、生きていてもらうつもりだったから。

父の死の後だろうか、「まさか」を身近に感じるようになった。

まさか、こんなに雪が降るとは。
まさか、こんなところに芽が出るとは。
まさか、母がまだ喫茶店をつづけるとは。
まさか、猫を2匹も飼うとは、なぁ。
まさか、自分が小学校の教員になるとは。


考えてみれば、ぜんぶ、『まさか』でできている。
ここにこうして暮らしていること、生きていること。
朝食でホウレン草のサラダを食ったが、それが食べられていることも「まさか」だ。

スーパーの棚に、物がなくなった映像をみたら、
本当の当たり前は、なにも並んでいない、「空の棚」の方が当たり前だったことに気づく。

そこに、物を運ばなければ、運ぶものを用意しなければ、
運ぼうとする人のはたらきがなければ、手が動かなければ、
なにも、並ばないで当たり前。「無い」がふつう。
いつの間にか、そこに「なにかが並んでいることの方」を当たり前にしているけれど。

こうやって毎日、なにかを食べていかれていること自体が、もはや「まさか」なんだろう。

今、こうやってキーボードをたたいて、ブログを書いていることも、
実は、「まさか」の連続で成り立っている事象。
もし、電気がこなければ。もし、指が動かなければ。もし、〇〇がなければ・・・。


まさか、で、当たり前。
その「まさか」を、
ひとの力と意志で、どんどんと爆発的に生み出している
のが、この世の中。
『「まさか」人類がこんなに地球上に繁栄するようになるとは』ということなんだろう。

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