このたびのトイレットペーパー騒動、すごかったです。
おそらく将来、このことが、教科書に載るでしょう。
そう考えるのは、すでにそういう事例があったからです。
実は、1970年代にオイルショックがありました。当時の騒動の様子が今の教科書に載せられていて、なぜそのような集団行動が起きたのか、考えることになっています。当時も紙が不足したわけではなく、国内の生産量はオイルショックとは無関係でかえって増産されていた、というのも、今日の騒ぎとまったく同じであります。
「集団心理」という言葉、教科書には載っていないけれど、授業をしていたらふつうに教室の中で話し合われるキーワードです。つまり、ふつうの小学生が、『集団心理』について、学習をするのが、今の日本の教育です。
今の大人、ほとんどの方は知っているわけです。
1970年代のオイルショック、そしてペーパー買い占め騒動について。頭の中に知識としては「ある」でしょう。ところが、それが「学んだこと」になっていない。だから、教訓が生かされないのです。
これが、「死んだ学び」というものでしょう。
この反対は、「生きた学び」です。
学ぶのは楽しいはず。
もっともっと、掘り下げて、なぜか、なぜか、と考える教室にしていかないと、いつまでも日本人は死んだ学びから脱却できないのではないかと思います。
さて、
なぜ集団心理が起きるかというと、人は不安を持つ動物だからでしょうか。
不安を避けようとする、というのは、人が生きていく際の基本的な戦略です。
そうしないと、危険を回避できない可能性(率)が高くなるから。
安全確保のために、不安を避けようとするのは人にそなわった基本的な知恵のようです。
ところが、その「不安」には度合いがあり、人によって異なる。
「なあに、大丈夫」(なんとなく気分で豪語)
という人もいれば、
「トイレットペーパーは国内生産が90%だし資源も国産。だとしたら中国からの輸入がとだえて買えなくなる、というのはデマだろう」(おそらく)
と、合理的に分析する人もいます。
もともと不安をあまり抱えることのない人で、
「まあ、なくてもそう困らん」
という人もいます。
「むかしは、新聞紙を手でもんで(しわくちゃにして)な、それでケツをふいとったぞなもし」(自慢)
だそうです。(実話)
不安な人は、そこまで考えることはないでしょうが、この方のように、不安をもたなければ、泰然自若としてスーパーのがらんとしたペーパーのコーナーを素通りできますね。
わたしの実家には、オイルショックのあと、かなり長い間、サランラップがありました。
幼いわたしが
「なんでこんなに、サランラップばっかり、うちにはあるんだろう?」
と疑問を抱いたところ、母がため息をつきながら、
母は、山のように積まれたサランラップを返品する勇気もなく、10年以上の間、親戚に配っても減らず、見るたびに買ったことを後悔したそうであります。(実家の母の談話より)
たしかに、わたしも、かつての台所の戸棚が大量のサランラップで占拠されていたのを、記憶のかなたにおぼろげに覚えております。(そのころのサランラップは、黄色に赤と緑のデザインだったナ)
こう考えると、小学校で習うべきなのは、
国語、算数、理科、社会、道徳、家庭科、体育、音楽、図工 の9教科ではなく、
不安心理、集団心理、国語、算数、料理、遊び、合理的な思考 の8教科にすべきではないでしょうか。
そして、そんなに急いで中学へ行かず、小学校を10年間に延ばすというのはどうでしょう。
中学校で部活・スポーツに血道をあげるのも、もちろん楽しいことには違いないのですが、小学校時代にもっと遊ばねばなりません。多くの子どもは歓声をあげて、この意見に賛同してくれると思います。
わたしは栄えある日本国民の一人として、光彩輝く未来の教育を思い描きながら、上記のように、さよう、進言します。
おそらく将来、このことが、教科書に載るでしょう。
そう考えるのは、すでにそういう事例があったからです。
実は、1970年代にオイルショックがありました。当時の騒動の様子が今の教科書に載せられていて、なぜそのような集団行動が起きたのか、考えることになっています。当時も紙が不足したわけではなく、国内の生産量はオイルショックとは無関係でかえって増産されていた、というのも、今日の騒ぎとまったく同じであります。
「集団心理」という言葉、教科書には載っていないけれど、授業をしていたらふつうに教室の中で話し合われるキーワードです。つまり、ふつうの小学生が、『集団心理』について、学習をするのが、今の日本の教育です。
今の大人、ほとんどの方は知っているわけです。
1970年代のオイルショック、そしてペーパー買い占め騒動について。頭の中に知識としては「ある」でしょう。ところが、それが「学んだこと」になっていない。だから、教訓が生かされないのです。
これが、「死んだ学び」というものでしょう。
この反対は、「生きた学び」です。
学ぶのは楽しいはず。
もっともっと、掘り下げて、なぜか、なぜか、と考える教室にしていかないと、いつまでも日本人は死んだ学びから脱却できないのではないかと思います。
さて、
なぜ集団心理が起きるかというと、人は不安を持つ動物だからでしょうか。
不安を避けようとする、というのは、人が生きていく際の基本的な戦略です。
そうしないと、危険を回避できない可能性(率)が高くなるから。
安全確保のために、不安を避けようとするのは人にそなわった基本的な知恵のようです。
ところが、その「不安」には度合いがあり、人によって異なる。
「なあに、大丈夫」(なんとなく気分で豪語)
という人もいれば、
「トイレットペーパーは国内生産が90%だし資源も国産。だとしたら中国からの輸入がとだえて買えなくなる、というのはデマだろう」(おそらく)
と、合理的に分析する人もいます。
もともと不安をあまり抱えることのない人で、
「まあ、なくてもそう困らん」
という人もいます。
「むかしは、新聞紙を手でもんで(しわくちゃにして)な、それでケツをふいとったぞなもし」(自慢)
だそうです。(実話)
不安な人は、そこまで考えることはないでしょうが、この方のように、不安をもたなければ、泰然自若としてスーパーのがらんとしたペーパーのコーナーを素通りできますね。
わたしの実家には、オイルショックのあと、かなり長い間、サランラップがありました。
幼いわたしが
「なんでこんなに、サランラップばっかり、うちにはあるんだろう?」
と疑問を抱いたところ、母がため息をつきながら、
これは、長身だった父が腕(リーチ)の長さを生かし、懸命に腕を伸ばしてつかみとり、スーパーでの争奪戦をしのいで買って帰ったサランラップなのだ。と解説してくれました。
母は、山のように積まれたサランラップを返品する勇気もなく、10年以上の間、親戚に配っても減らず、見るたびに買ったことを後悔したそうであります。(実家の母の談話より)
たしかに、わたしも、かつての台所の戸棚が大量のサランラップで占拠されていたのを、記憶のかなたにおぼろげに覚えております。(そのころのサランラップは、黄色に赤と緑のデザインだったナ)
こう考えると、小学校で習うべきなのは、
国語、算数、理科、社会、道徳、家庭科、体育、音楽、図工 の9教科ではなく、
不安心理、集団心理、国語、算数、料理、遊び、合理的な思考 の8教科にすべきではないでしょうか。
そして、そんなに急いで中学へ行かず、小学校を10年間に延ばすというのはどうでしょう。
中学校で部活・スポーツに血道をあげるのも、もちろん楽しいことには違いないのですが、小学校時代にもっと遊ばねばなりません。多くの子どもは歓声をあげて、この意見に賛同してくれると思います。
わたしは栄えある日本国民の一人として、光彩輝く未来の教育を思い描きながら、上記のように、さよう、進言します。