今の6年生は、1年生で入学したときにすでに「神話」教育を受けた子どもたちです。
だから、いちおう、日本の神話を知っている。
いなばの白うさぎも知っているし、大黒様も知ってる。
大国主命(おおくにぬしのみこと)も知ってる。
教科書に載っているため、みんないちおう、平等に知っている。
で、6年生で科学的に今度は歴史を学んだわけだ。
実は、6年生の2学期でほぼ歴史学習を終える今の時期、もう一度、歴史学習をおさらいする。
「縄文時代」からずーっと、日本の国の歴史を見通してみる学習をする。
その際、日本のいちばん古い状態はどういう状態だったかというのを出し合うと、急に思い出したかのように、「なんか、神さまがぐるぐるかき回して、ぼとっと落ちた土からくにができた」ということを言う子がいる。
これは、学習の成果がきちんと出てきているので、いわゆる日本はイザナギとイザナミの2人の神が天の橋に立ち、矛で混沌をかき混ぜて島を造る。『古事記』などでは、その後、さらに多くの島を産むことになっている。
「よく覚えているねえ」
もう忘れている子もほとんどいるなかで、何人かの子は、きちんとこういう大事なことを覚えている。
神武天皇が紀元前700年くらいの人。
それから5代前が、天照大神。
当時の平均年齢は20歳前後と言われているから、おそらくアマテラスの女神は、紀元前800年ごろだろうと推測される。
さらに、その父母である、イザナギ、イザナミのそれぞれの神に関しては、紀元前850年~900年ごろに生きた人物だろうと予想されている。
世界に目を向けると、アーリア人がガンジス川流域に移動し、バラモン教が成立するのが、ちょうどこのころだ。中国では、周、という王朝が幅をきかせていた。
日本では、イザナギ、イザナミのふたりが、いっしょうけんめいにかき混ぜ、かきまわして国をつくっていたが、それより先に実は縄文人が1万年近くも、日本に住んでいたのだから、縄文人は驚いただろうと思う。いきなり社会の共通的な資本である「公益の土地」を、勝手にだれかがかき回し始めたのだから。
縄文人たちも、おちおちクリなど拾っている場合ではなかったろう。
「おおおおお、!地面がゆれる、ゆれるぞォォォ!!気を付けろーー」
縄文人の文化や黒曜石の交易のはなし、あるいはクリなどの栽培痕跡や、大規模集落での祭りのあと、手厚い埋葬のすがた、そして春秋の暦をみわけるための砦や石の塔。
科学的にも進んでいた縄文人の学習をしてきた6年生は、頭の中で、この「神話」との整合性に、どうにも無理を感じてきてしまう。
わたしが、
「いちおう、このころ縄文人が暮らしていたけど、イザナギとイザナミのおふたりの神さまもちょうどこのころ、土地や山なんかをぐーるぐる、かき回しになられたということになるね」
と、解説を入れた。
縄文人たちがお互いの共通的な社会資本である土や水、森、山、空気などとともに暮らしていたところへ、イザナギとイザナミが現れ、土地をかきまわしはじめられた、ということをクラス全体で確認したところ、くすくす、笑いが起きた。
なにごとならんと思っていると、
「いきなりすぎやん。急(きゅう)だって」
「イザナギ、勝手やなぁ」
「やっちゃった感が」
「最初に、かきまぜますよ、がほしい」
と、子どもたちはイザナギとイザナミへ非難の目を向けだしたのだ。
わたしは慌てて神をフォロー。
「でも、やっぱり、神だということになってるわけだし・・・」
・・・ちゅうことになっておる。
どんな話も、この「・・・ちゅうことになっておる」というのをつけて、聞いたほうが良い。
・・・
その先は、もう、宗教の世界。
「信じる」ということだけだ。
事実はなくとも、そう、信じる、ということ。
無神論者の多い日本人にとってみると、かなり難易度が高い取り組みだが・・・。
司馬遼太郎さんの講演で、日本人の苦手な思考として、「信じる」を挙げていた。
「日本人にとっては、神というのは、糸巻のようなものなんです」と、説明していた。
『糸巻のなかの芯は、空洞です。その空洞に、信じるための論理付けとして、神々の説明という糸をずんずんと巻いていく。神というのはこうだ、こんなことをしたんだと、ぐるぐると巻き付けていくと、形ができてくる。中身がなくても、外側からみると、形があるような感じにはなるんです。しかし、肝心の中身はからっぽです。事実ではないのですから』
というようなことで、説明していた。
善悪を離れたうまい説明だな、と当時、感心したことを思い出す。
だから、いちおう、日本の神話を知っている。
いなばの白うさぎも知っているし、大黒様も知ってる。
大国主命(おおくにぬしのみこと)も知ってる。
教科書に載っているため、みんないちおう、平等に知っている。
で、6年生で科学的に今度は歴史を学んだわけだ。
実は、6年生の2学期でほぼ歴史学習を終える今の時期、もう一度、歴史学習をおさらいする。
「縄文時代」からずーっと、日本の国の歴史を見通してみる学習をする。
その際、日本のいちばん古い状態はどういう状態だったかというのを出し合うと、急に思い出したかのように、「なんか、神さまがぐるぐるかき回して、ぼとっと落ちた土からくにができた」ということを言う子がいる。
これは、学習の成果がきちんと出てきているので、いわゆる日本はイザナギとイザナミの2人の神が天の橋に立ち、矛で混沌をかき混ぜて島を造る。『古事記』などでは、その後、さらに多くの島を産むことになっている。
「よく覚えているねえ」
もう忘れている子もほとんどいるなかで、何人かの子は、きちんとこういう大事なことを覚えている。
「この漂っている国を修めよ」と命じられた、イザナギ・イザナミの命は天空に架かっている天の浮橋に立って、矛を下ろして、海をかき混ぜてから引き上げました。すると、矛の先から海水がしたたり落ち、島ができました。最初にできたのが淡路島。続けて伊予・讃岐・阿波・土左の四つの顔を持った四国。次に、隠岐。筑紫・豊国・肥国・熊曾の四つの顔を持った九州。壱岐。対馬。佐渡。近畿の大八島。次いで児島半島。小豆島。周防大島。女島。五島列島。男女群島の男島・女島の六島をお生みになりました。これで日本の国土が完成しました。
神武天皇が紀元前700年くらいの人。
それから5代前が、天照大神。
当時の平均年齢は20歳前後と言われているから、おそらくアマテラスの女神は、紀元前800年ごろだろうと推測される。
さらに、その父母である、イザナギ、イザナミのそれぞれの神に関しては、紀元前850年~900年ごろに生きた人物だろうと予想されている。
世界に目を向けると、アーリア人がガンジス川流域に移動し、バラモン教が成立するのが、ちょうどこのころだ。中国では、周、という王朝が幅をきかせていた。
日本では、イザナギ、イザナミのふたりが、いっしょうけんめいにかき混ぜ、かきまわして国をつくっていたが、それより先に実は縄文人が1万年近くも、日本に住んでいたのだから、縄文人は驚いただろうと思う。いきなり社会の共通的な資本である「公益の土地」を、勝手にだれかがかき回し始めたのだから。
縄文人たちも、おちおちクリなど拾っている場合ではなかったろう。
「おおおおお、!地面がゆれる、ゆれるぞォォォ!!気を付けろーー」
縄文人の文化や黒曜石の交易のはなし、あるいはクリなどの栽培痕跡や、大規模集落での祭りのあと、手厚い埋葬のすがた、そして春秋の暦をみわけるための砦や石の塔。
科学的にも進んでいた縄文人の学習をしてきた6年生は、頭の中で、この「神話」との整合性に、どうにも無理を感じてきてしまう。
わたしが、
「いちおう、このころ縄文人が暮らしていたけど、イザナギとイザナミのおふたりの神さまもちょうどこのころ、土地や山なんかをぐーるぐる、かき回しになられたということになるね」
と、解説を入れた。
縄文人たちがお互いの共通的な社会資本である土や水、森、山、空気などとともに暮らしていたところへ、イザナギとイザナミが現れ、土地をかきまわしはじめられた、ということをクラス全体で確認したところ、くすくす、笑いが起きた。
なにごとならんと思っていると、
「いきなりすぎやん。急(きゅう)だって」
「イザナギ、勝手やなぁ」
「やっちゃった感が」
「最初に、かきまぜますよ、がほしい」
と、子どもたちはイザナギとイザナミへ非難の目を向けだしたのだ。
わたしは慌てて神をフォロー。
「でも、やっぱり、神だということになってるわけだし・・・」
・・・ちゅうことになっておる。
どんな話も、この「・・・ちゅうことになっておる」というのをつけて、聞いたほうが良い。
・・・
その先は、もう、宗教の世界。
「信じる」ということだけだ。
事実はなくとも、そう、信じる、ということ。
無神論者の多い日本人にとってみると、かなり難易度が高い取り組みだが・・・。
司馬遼太郎さんの講演で、日本人の苦手な思考として、「信じる」を挙げていた。
「日本人にとっては、神というのは、糸巻のようなものなんです」と、説明していた。
『糸巻のなかの芯は、空洞です。その空洞に、信じるための論理付けとして、神々の説明という糸をずんずんと巻いていく。神というのはこうだ、こんなことをしたんだと、ぐるぐると巻き付けていくと、形ができてくる。中身がなくても、外側からみると、形があるような感じにはなるんです。しかし、肝心の中身はからっぽです。事実ではないのですから』
というようなことで、説明していた。
善悪を離れたうまい説明だな、と当時、感心したことを思い出す。