学校というのはさまざまな問題がもちあがる場所。
それは当然で、関係者全員が生きて動いているのだから、いろんな課題が見えてくる。

前回の記事で、校長先生だけは『笑顔でいてほしい』と切に願っている記事を書いた。
管理職の第一の適性は、『ゆるがず、どっしりと、よろず良し』と存在することだと思う。
石のように微動だにせず、周囲に存在感だけは示していてほしい。

先日の記事にあるような「落書きに関する指導方法と教師と保護者のくいちがい」のようなことは、しょっちゅうある。
そこで、校長先生が、

「ど、ど、どういうことでしょうか、あ、あ、これはいったい・・・」

と、のどをからからにさせて右往左往しているのは、やはりなんというか、である。

責める親は責める。
当然である。
他を責めたくなるような世の中であるし、責めずにはいられない気分が蔓延している。
「守られていない自分」を感じていれば、たとえおしゃか様でも他を責めるでしょう。
キリストだって、自分を守らねば、と思っていたのなら、ぜったいに左の頬を出さないはず。
守られていない感が世の中に充満しているのだから、だれだってそうなる。

子どもでもそうで、落書きをしたことについて、なにかしらサインを出している。
落書きしたくなる子、落書きしようとした気持ちを子細に見てみると、担任であればいろんな想像がはたらくものだと思う。

それも含めて、実は世の中は、

「うまくいかせよう」

とは、あまりしなくても、いいのだと思える。

校長先生は、「学校がうまくいきますように!」と、あまり願いすぎない方がいいように思う。

それはなぜかというと、落書きもあって当然だからであります。
ただ、それをしなくてもよければしないほうがよく、そうなるように子どもが安定していけるような働きかけをすればいいだけだし、親もそうで、怒って学校へ怒鳴り込んでもよく、それは管理職なら当然そのようなことはどんどんと受け入れるのが仕事で、保護者と一緒になって子どものことに心と頭を働かせればいい。

ただし、それで動転したり、血圧をあげたり、焦って汗をかいたり、口ごもったり・・・そんなことが起きるとしたら、なにかが、まちがっているのだと思う。「うまくいかなくて当然」なのだから。

うまくいかせよう、という動機ではじめたことは、なぜか、いつまでたっても目指すゴールにはいきつかない気がする。

ところが、「うまくいかせよう」という動機をはなれて、「うまくいく自分」になりさえすれば、結果として、すべてがうまくいく、のだろう。

管理職は、うまくいくことを願うのではなく、うまくいく自分になっていさえすれば、結果としておのずと、意図せずとも、しぜんに、なぜかほうっておいても、ただそうしているだけで、ただなにも意識せずとも、なんにもしなくったって(←くどいか)、

結果としては、うまくいくのだろう、と思う。

まだ管理職にはならない自分がこんなことを書くと、
「お前が言うな」
だと自分でも思うが、もし自分が管理職であれば、「うまくいく」ことを願う、というのはやらない。というか、できない。なぜかというと、うまくいくはずがないから。しかし、現実に起きていることを決して憎まず、目を背けず、「うまくいく」自分になっているかをいつもチェックしているだけで、おそらくうまくいくのだろうという感じがするから、わたしは自分でも意外なことに、かなり楽観的である。

〇事実だと思い込んでいないか
〇事実だと決めつけていないか
〇そういうものだとしていないか
〇自分の評判のためにと考えていないか
〇早く解決するのが良いとなっていないか
〇解決すればよいと思っていないか
〇なんらかの「憎しみ」が、行動の動機になっていないか
〇困ったからやる、という発想でやっていないか

こうしたことをチェックしていれば、おそらく本来の目的からズレないだろうと思います。

01010024