休日の夕方から、ちょっと気になるスーパー銭湯へ行きました。
やすみの日だから、家族連れが多い。
なかに、お父さんといっしょに入りにきた少年がいて、のしのし、と十分に貫禄ある歩き方。
周囲を睥睨(へいげい)しながら、今度はどの風呂へ・・・と思案しつつ、歩いております。
わたしゃ、「お」、と思いましたね。
4、50代のおっさんたちの中に紛れても、まったく違和感のない立居振舞い、目線の置き方、ゆっくりしたテンポ。
少年は、
「ぼくはこういうとこ、慣れてるから」
感を充満させながら、さまざまな風呂を試しておりました。
よく、子どもは自分のテンポで生きておりますから、こういうところに来ると、やたらとはしゃいだり、急いで小走りになったりして、周囲のテンポとずれていることが多いです。
ところがその少年だけは、一歩一歩が、ゆっくりしている。
岩風呂に入るときも、まるで王様のような感じ。
一歩踏み入れて、お湯の温度を確かめつつ、次の一歩をどっしり、と踏みいれる。
背は小さいから、そのたった2歩だけで、身体はほとんど湯にうもれてしまいますが、大事なのはそのテンポです。
周囲のおじさんのテンポをかき乱すようなことなく、目線の配り方も悦に入っていて、きょときょとしない。子どもが不安を目にあらわすことは多いですが、それがなく、目が満悦しきっている。
すでに堂々たる大物ぶりです。
そのからだつきや態度などから感じる人間的重みや風格、身に備わった威厳は、もはや8、9歳のシングルエイジャー、という事実を超えておりました。
「このくらいでないと。」
わたしは、風呂の空間を、彼のためにちょっとだけ心持ち譲り気味になりながら、思いましたね。
こういう風格が身に付くためには、彼のように、ほぼ毎日、この温泉に通わなければならないでしょう。
大事なのは、積み重ねです。
彼の前では、どんな大人だって、新人です。新入り。
彼は、毎日、ここへ通っているのですから。
いわば、ここは、彼の家(うち)です。テリトリーです。
入れ墨をしたおっさんだって、彼の前では、
「や、あっしも経験が浅くて、まだまだ・・・」
と、つい言いそうになるくらいです。
そんな彼を見ながら、あれこれ感じるところがありました。
考えてみれば、風呂というのは公共空間でありまして、人間にとって大事な、人と人との間柄を学ぶのに、うってつけの空間であります。
ここで、彼のような人材を育てるために、できることがあるのではなかろうか、と。
「風呂育」(ふろいく)
と言う言葉が、頭に思い浮かびました。
○○育、ということばがずいぶん前に流行りました。(今はどうか知らんけど)
食育とか木育とか水育とか・・・
今、調べてみると、リンナイ、という会社が、すでに「風呂育」を提唱しておりました。
ただそれは、自宅の風呂をテーマにしているようで、自宅でのマナーを学ぶことに重点を置いているようであります。
わたしの言うのは、公共の風呂での、風呂育です。
大事なのは、最初の項目です。
○子どもが大人のテンポで風呂に入ることができる。
これは、なかなか難しい。
子どもが、おとなのリズムを理解して、それで立居ふるまうのですから。
それを習得するのは並大抵ではない。2,3年の修行でも足りないかもしれない。5年、10年、と毎日風呂に入っているうちに、本人が40代になってしまうかもしれない。
あとは、目線の置き方でしょうね。
じろじろと、股間を見つめてくる子どもに、動揺したり、狼狽した経験は、大人ならだれしもあるでしょう。
公共空間で、さもめずらしいものをみた!、という感じで、感心しきって股間を見つめてくる子どもには、もう、どうしたらいいか、分からない。
やすみの日だから、家族連れが多い。
なかに、お父さんといっしょに入りにきた少年がいて、のしのし、と十分に貫禄ある歩き方。
周囲を睥睨(へいげい)しながら、今度はどの風呂へ・・・と思案しつつ、歩いております。
わたしゃ、「お」、と思いましたね。
4、50代のおっさんたちの中に紛れても、まったく違和感のない立居振舞い、目線の置き方、ゆっくりしたテンポ。
少年は、
「ぼくはこういうとこ、慣れてるから」
感を充満させながら、さまざまな風呂を試しておりました。
よく、子どもは自分のテンポで生きておりますから、こういうところに来ると、やたらとはしゃいだり、急いで小走りになったりして、周囲のテンポとずれていることが多いです。
ところがその少年だけは、一歩一歩が、ゆっくりしている。
岩風呂に入るときも、まるで王様のような感じ。
一歩踏み入れて、お湯の温度を確かめつつ、次の一歩をどっしり、と踏みいれる。
背は小さいから、そのたった2歩だけで、身体はほとんど湯にうもれてしまいますが、大事なのはそのテンポです。
周囲のおじさんのテンポをかき乱すようなことなく、目線の配り方も悦に入っていて、きょときょとしない。子どもが不安を目にあらわすことは多いですが、それがなく、目が満悦しきっている。
すでに堂々たる大物ぶりです。
そのからだつきや態度などから感じる人間的重みや風格、身に備わった威厳は、もはや8、9歳のシングルエイジャー、という事実を超えておりました。
「このくらいでないと。」
わたしは、風呂の空間を、彼のためにちょっとだけ心持ち譲り気味になりながら、思いましたね。
こういう風格が身に付くためには、彼のように、ほぼ毎日、この温泉に通わなければならないでしょう。
大事なのは、積み重ねです。
彼の前では、どんな大人だって、新人です。新入り。
彼は、毎日、ここへ通っているのですから。
いわば、ここは、彼の家(うち)です。テリトリーです。
入れ墨をしたおっさんだって、彼の前では、
「や、あっしも経験が浅くて、まだまだ・・・」
と、つい言いそうになるくらいです。
そんな彼を見ながら、あれこれ感じるところがありました。
考えてみれば、風呂というのは公共空間でありまして、人間にとって大事な、人と人との間柄を学ぶのに、うってつけの空間であります。
ここで、彼のような人材を育てるために、できることがあるのではなかろうか、と。
「風呂育」(ふろいく)
と言う言葉が、頭に思い浮かびました。
○○育、ということばがずいぶん前に流行りました。(今はどうか知らんけど)
食育とか木育とか水育とか・・・
今、調べてみると、リンナイ、という会社が、すでに「風呂育」を提唱しておりました。
ただそれは、自宅の風呂をテーマにしているようで、自宅でのマナーを学ぶことに重点を置いているようであります。
わたしの言うのは、公共の風呂での、風呂育です。
○子どもが大人のテンポで風呂に入ることができる。
○となりの人の背中を流してあげることができる。
○風呂桶を元に戻すことができる。
○あわを排水溝へ向けて、流しておくことができる。
○サウナの入り口で、うまくすれちがうことができる。
○ほかの人の体と対面したときの、目線の置き方を心得る。
まァ、さしあたり、この6項目を基本理念として提唱しておきたいですな。
大事なのは、最初の項目です。
○子どもが大人のテンポで風呂に入ることができる。
これは、なかなか難しい。
子どもが、おとなのリズムを理解して、それで立居ふるまうのですから。
それを習得するのは並大抵ではない。2,3年の修行でも足りないかもしれない。5年、10年、と毎日風呂に入っているうちに、本人が40代になってしまうかもしれない。
あとは、目線の置き方でしょうね。
じろじろと、股間を見つめてくる子どもに、動揺したり、狼狽した経験は、大人ならだれしもあるでしょう。
公共空間で、さもめずらしいものをみた!、という感じで、感心しきって股間を見つめてくる子どもには、もう、どうしたらいいか、分からない。