数々の職を経て、転職を繰り返した挙句に教員になった。今、学校という社会の中で生きるようになっても、頭のどこかで、「これが絶対のルール、ということではない」という考えは、ずっと滲みついて離れない。現に、学校のルールだって、見直しがあり、変わっていく。ぜったいにしなければならないと思っていた行事が、来年は校長の意見で廃止されることだってある。A校長が「家庭訪問は絶対に大事」と言っていたが、B校長は「廃止します」と言える。可能だからである。

「してもよい、しなくてもよい」ということがある。
たとえば、日曜日に礼拝にいく敬虔なキリスト教徒であったとしても、基本的には礼拝に「行ってもよいし、行かなくてもよい」という認識でいるだろうと思う。(想像)
また、われわれ市民の憩いの場である公園を、ひとが思い思いに散歩することについて、「してもよい、しなくてもよい」ということが言えるだろうと思う。
居住地についても、人間は選択をすることができて、〇〇県に住むことについては、「住んでもよく、住まなくてもよい」のだろう。

ところが、「してもよい」⇒「してよい」⇒「したほうがよい」と、進化する場合がある。

なかなか公園の利用機会が増えないので業を煮やした市役所行政係が、市民は公園を利用してくださいとよびかけて、公園の利用者にはペットボトルの備蓄用水を無料で配布したとしましょう。すると、これは、「してもよい」レベルではなく、官がそれを肯定している、つまり市民としては積極利用していくこと、に進化します。

さらに、「したほうがよい」から、「しなければならない」になる場合もある。

公園を利用しないと税金を高くします、という市長が立候補して当選し、公園利用者は経済的な恩恵を受けるが、利用しない人からは税金をたんまりとる、ということになる場合がそれだ。

ほとんどの市民が、日曜日に公園を散歩しないやつは馬鹿だ、ということになり、われもわれも、とみんなで公園を散歩しだすだろう。それが当たり前の風潮になってくると、ちょっとまずい。

ある人が
「おれはべつに、散歩しなくてもいいし、したい気が起きないので、散歩しない」
というと、

「おまえ、馬鹿だなあ。税金がとられるじゃないか」
といって、馬鹿にすることが起きる。

どうだろうか。
いつの間にやら、世界が変わっていることに気付きますね。
もうすでに、「してもよいし、しなくてもよい」という世界は、そこでは消滅しているのである。
「しないやつは馬鹿だ(白い眼)」
「しなければならないのだ」
と、なっているではありませんか!(びっくりですナ!)

人間社会の基本的なルールというものは、「してもしなくてもよい」であったのに、それをどんどんと放棄していくのが、現代という社会の宿命なのでありましょう。
(安楽死・尊厳死も、そのうちに「早めに安楽死しないと税金が高くなるから、早く死ね」と行政が言うようになるかもネ。嘘ウソ・・・こわーい・・・)

shisen_kowai