「ほめるか叱るかによって子どもの性格をコントロールできる」という前提が、教育界には根深く残っているように思われる。

だから、花壇の花の上を、おにごっこで駆け抜けていく子を、担任は叱る。

自然を愛し、花を愛することのできる心優しい子どもに育てるために、叱る、というわけだ。

「ほら!ハナの茎が折れちゃったじゃないの!ここ!足跡が残っている!あなたの足あとでしょう!」

ところが、ここで叱られたからといって、この子はべつに、花を愛し、心やさしくなる、とは限らないのでありますね。

「そんなことないでしょう」という人は、人間の行動を「訂正」し、その「訂正」を繰り返していけば、すばらしい人格の持ち主になれるはずだ、という思い込みを持っているのではないだろうか。


花の世話をしない子に、罰を与えても、好きになってはいかない。
自然の好きな、花の好きな子にしようとして、
「花を好きになりなさい」
と、指示を出しても仕方がない。
担任が花に興味がないのに、花が好きだというフリをして、
「花って良いねぇ」
何度話しかけても、子どもには見抜かれてしまいます。
ふとした瞬間に教師が見せる、興味のない視線の方が印象深いし、察知されます。
子どもは本能的に、教師の本音を感じて、そこに自分の行動も規範も言動もすべて、合わせようとするのです。

つまり、子どもを「花の好きな子に育てよう」としても、これはなかなかそうはいかないものなのです。

かように、「人間の内面になにかが育つ」、というのは、「悪い芽を摘む」こと以上に、なかなかたいへんなことのようでありますね。

ところが、何もしないのに、いつの間にか、その子に育っているものがある。そういう場合がある。
花好きのおばあちゃんが近くに居ると、いつの間にやら、何も教えないのに、けっこう花好きな子になっているので驚くことがある。

これは、意識的で意図された明確な指導よりも、無意識的態度のうちに伝わってしまう指導の方がはるかに有効だ、というわけ。

こう考えると、世の中的にみた犯罪者をつくらないための指導、というのは学校教育では施すことができるだろうが(←これは、そういうものだとしてルールを強く教えることにより・・・)、しかし一方で、その子の内面にさまざまな豊かな世界を構築さしめる、ということについては、なかなか学校教育では難しいのではないかと思われてならない。

向いているのは、先生ではなく、まあ親か・・・それとも、一番いいのは「じじばば」くらいの距離感のある人たちかもネ。それも、口うるさくなく、意図的に教育しようという意志が皆無であるようなタイプのじじばばが、もっともふさわしいという気がするナ・・・。

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