新しく道徳が教科となった。

教科書を読んでいると、この本のいちばん底に流れている思想は、結局はこの「相手の身になってみよう」に尽きてくると思われる。


ところが、これは実は重大な落とし穴がある。

ぼく、平気だもの。

という子。
この子には、これは通用しないのであります。

AがBを蹴る。
Bが痛い、と泣く。
Aに対して、「Bくんの気持ちを考えてごらん。あなただって、蹴られたら痛いし、いやでしょう」
すると、驚くなかれ、Aは、こう言い放つのであります。

「だって、ぼく、蹴られても平気だもん」

教師はいぶかって、再度念を押す。

「本当に?だって、蹴られたらいやでしょう」

Aは、首をふって、「本当に平気だもん」

ここで前提が崩れてしまう。
すべての人が自分と同じ性格であることを前提として話を進めていれば成り立つ話が、実際は成り立たないのであります。つまり、
自分がしてもらいたくないことと、他人がしてもらいたくないこと、
自分がしてもらいたいことと、他人がしてもらいたいことが同じである。
という前提があって初めて、成り立つ話なのだ。ところが、実際の人間は、そうではない。

Aは、まじめ、である。
このくらいの蹴り方で、こんな程度に蹴られることなんて、ぼくは平気だ、と思うのである。本当に、心からそう思っているのである。このくらい、本当に平気だ、と思うのであります。

だから、この場合は、

「Bくんの気持ちを考えてごらん。あなただって、蹴られたら痛いし、いやでしょう」

ということではなく、

「Bくんは、あなたとちがって、痛いかもしれない、と考えよう」

ということを教えるべきである。

つまり、人間はこういう場合はこんなふうに考えるものである、感じるものである、というのは一切ただのキメツケである。実際には「そんなセオリーはどこにも無い」。

そうなると、Aは新たな問いを発見するであろう。
「なぜ、自分Aと、あいつBとでは、考え方や規準、道徳感情や価値観が、異なるのだろうか」
ここを考えるのが、教科としての道徳の、真のあり様ではないだろうか。


たしかに、生活上のルールを考えるのは、簡単だ。

〇たたくのはやめよう
〇けるのはやめよう
〇画鋲を置くのはやめよう
〇相手がいやだと思うことを強要するのはやめよう
〇パワハラはやめよう
・・・
しかし、こんなことは、「道徳の本質」とは異なるものである。


道徳は、「人間関係をスムーズにする方法や手立て、ルールを考える」というレベルを超えていく。
結局は、「人間とはいかなるものか、という研究」に近づいていくのではなかろうか。

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