久しぶりにテレビを見てたら、韓国の軍艦のレーダー問題が報道されていた。
海上自衛隊のP1哨戒機が韓国海軍艦艇から射撃用の火器管制レーダーを受けたとされる問題だ。
わたしは年末くらいゆっくりとテレビを見ようかしら、とソファーに腰を掛けて、コーヒーを飲んでた。ところがこのニュースをみてたら、3学期の社会の授業が気になってきて仕方がない。
おそらく、クラスの誰かがこの問題を取り上げ、
「先生、日本と韓国で、戦争をするか」
と聞いてくるだろうから。
子どもは自分の知識が圧倒的に少ない、ということを自覚しているからすばらしい。
「自分には、よく分からない」
ということを、ちゃんと前提にしている。
だから、下手な大人よりも、きちんと現実に向かう姿勢ができていると思うネ。
「俺の意見は正しい。おれはちゃんと情報を収集したから、分かったのだ」
と言い切ってしまい、さらにはネットで他の大人の考えや意見を「浅い」とか「ダメだ」と言い切ってしまう大人よりは、よほどいい。
「社会は自らが正常であるという幻想を保つために、正常でないものとしての犯罪者を必要とする」
という考えがある。
ひとは、どうしても「自分は正常である」と思いたい動物だ。
そのために、どうにかして自分とは違った意見を探し出してくる必要が生じる。
そして、その探し出したり、見つけ出したりしてきた意見を、否定する、のである。
意見ならまだマシで、もっと強迫的に「俺は正常のはず」と言わねばならない必要性が増す場合は、その意見を出した人間を、叩く。「この人間は、間違っている」と。
さらにエスカレートすると、「こんな考えを持っている人間は、排除するべきだ」となる。そこまで言うことでようやく、「この広い世の中で、俺こそが正常であるはず」が腑に落ちるのである。
しかし、教室では、相手の意見を叩く必要がない。
なぜなら、小学生は「自分はよく分からないし、知らない」ということを前提にしているからだ。
だから、別の意見を叩く必要が無い。排除しなくてもよい。
いろんな意見が出てくれば、そのうちのどれがもっとも「もっともらしいか」について考える。
で、考えた上で、べつに結論が出ても出なくてもいい、というのが教室だ。
そのおかげで、このレーダーの問題も、わたしは軽くスルーできる。
「よく分からんねえ」とネ。
よし、そうすることにしよう。(ここまで考えて、ようやくホッとできた)
ちなみに、5年生の社会では、このことをきちんと学習する。
「情報産業」について学ぶ単元があるのだ。
報道も、ニュースも、意図があって報道される。
報道する側の会社の意図や思想が、その背景にはかならず存在する。
つまり、情報は、「つくられている」。
内容も、タイミングも、最適化され、発信されている。
文部科学省の学習指導要領には、
この場合の『正しい判断』とは、マスコミの流す情報のうち、どれを否定すればよいかではない。
「この広い世の中で、自分こそが正常なのだ、ということを強く自身に言い聞かせる必要が無い」ため「排除する必要は無い」、ということの自覚について『正しく判断できているか』、であろう。
大人になればなるほど、「俺は正常なのだ」と思いたくなる。
子どもには、その必要がないから、ね。

海上自衛隊のP1哨戒機が韓国海軍艦艇から射撃用の火器管制レーダーを受けたとされる問題だ。
わたしは年末くらいゆっくりとテレビを見ようかしら、とソファーに腰を掛けて、コーヒーを飲んでた。ところがこのニュースをみてたら、3学期の社会の授業が気になってきて仕方がない。
おそらく、クラスの誰かがこの問題を取り上げ、
「先生、日本と韓国で、戦争をするか」
と聞いてくるだろうから。
子どもは自分の知識が圧倒的に少ない、ということを自覚しているからすばらしい。
「自分には、よく分からない」
ということを、ちゃんと前提にしている。
だから、下手な大人よりも、きちんと現実に向かう姿勢ができていると思うネ。
「俺の意見は正しい。おれはちゃんと情報を収集したから、分かったのだ」
と言い切ってしまい、さらにはネットで他の大人の考えや意見を「浅い」とか「ダメだ」と言い切ってしまう大人よりは、よほどいい。
「社会は自らが正常であるという幻想を保つために、正常でないものとしての犯罪者を必要とする」
という考えがある。
ひとは、どうしても「自分は正常である」と思いたい動物だ。
そのために、どうにかして自分とは違った意見を探し出してくる必要が生じる。
そして、その探し出したり、見つけ出したりしてきた意見を、否定する、のである。
意見ならまだマシで、もっと強迫的に「俺は正常のはず」と言わねばならない必要性が増す場合は、その意見を出した人間を、叩く。「この人間は、間違っている」と。
さらにエスカレートすると、「こんな考えを持っている人間は、排除するべきだ」となる。そこまで言うことでようやく、「この広い世の中で、俺こそが正常であるはず」が腑に落ちるのである。
しかし、教室では、相手の意見を叩く必要がない。
なぜなら、小学生は「自分はよく分からないし、知らない」ということを前提にしているからだ。
だから、別の意見を叩く必要が無い。排除しなくてもよい。
いろんな意見が出てくれば、そのうちのどれがもっとも「もっともらしいか」について考える。
で、考えた上で、べつに結論が出ても出なくてもいい、というのが教室だ。
そのおかげで、このレーダーの問題も、わたしは軽くスルーできる。
「よく分からんねえ」とネ。
よし、そうすることにしよう。(ここまで考えて、ようやくホッとできた)
ちなみに、5年生の社会では、このことをきちんと学習する。
「情報産業」について学ぶ単元があるのだ。
報道も、ニュースも、意図があって報道される。
報道する側の会社の意図や思想が、その背景にはかならず存在する。
つまり、情報は、「つくられている」。
内容も、タイミングも、最適化され、発信されている。
文部科学省の学習指導要領には、
「マスメディアの働きや,それを通して送り出された情報が国民生活に大きな影響を及ぼしていることを調べ,情報を発信する側に求められる役割や責任の大きさ,情報を受け取る側の正しい判断の必要性などについて考えをまとめることが大切である。」とある。
この場合の『正しい判断』とは、マスコミの流す情報のうち、どれを否定すればよいかではない。
「この広い世の中で、自分こそが正常なのだ、ということを強く自身に言い聞かせる必要が無い」ため「排除する必要は無い」、ということの自覚について『正しく判断できているか』、であろう。
大人になればなるほど、「俺は正常なのだ」と思いたくなる。
子どもには、その必要がないから、ね。
