休み時間になると、わーっと子どもに取り囲まれる。

わたしは宿題のノートを見たり、次の授業のことのちょっとした確認をしたいから、さーっと子どもたちから逃れようとする。

すると、わたしの行く方向に、ワーッと、子どもたちが寄ってくる。

これは、4月の学級の姿であります。

それが、5月になり、6月ともなれば、子どもたちは自分たちで遊ぶようになり、担任のところには寄ってきません。自分たちで遊べば満足だからでしょう。

それでも、ちらほら、とわたしのところに寄ってくる子がいます。

わたしは仕事をしながら、ふんふん、と8割くらい、聞きます。

しばらくしゃべって満足するレベルの子は、1,2分話すとどっかへ行っちまいます。

それ以上話したいことがある子の場合。

その場合は、わたしは向き直って、目を見てじっと相手をします。

相談がある場合はちょこっとアドバイスをします。

それで満足する子は、表情を明るくして、

「先生、ありがとうございます」

で、どっかへ行きます。




ところが。

それで、どっかへ行かない子もいる。

これは、わたしはこう思うことにしています。

「アドバイスじゃないんだな」


つまり、子どもはアドバイスが欲しいわけではない。

その場合、わたしは話を聞くことにかなり集中します。

身を乗り出して、聞く。

何も言わずに。

もし言うとしたら、
「ふーん、〇〇だから、〇〇なんだね」

子どもは、自分の状態を、なかなか客観的に言いません。
語彙もないのでしょうが、自分のもやもや、心の状態を的確に言える子は、少ないのです。
だから、なんとか言葉を探して、自分の状態を知ってほしいし、自分でも知りたいから、来るのでしょう。

そこで、あなたは今、こんな状態なのね。

ということを、大人の視点、大人の言葉、語彙をつかって、ちょっと言ってみるわけ。

すると、

「そう。それ」

という表情になる。


このとき、

「〇〇だから、△△なんだねー」

といってあげると、どうやら自分でも納得できるみたい。

もちろん、〇〇、という言葉は、できるだけ子ども自身から発したものである方がいいでしょうね。



△△には、感情を示す言葉が入るのです。ところが、日本人はなかなか、この感情を言いませんナ。この社会には、自分の感情をさらけ出して言うような文化が無いのだと思います。
大人もそうなのですから、小学生も同様です。なかなか△△を、言葉にできません。まるで、言うことを避けるかのように、生きています。

したがって、一度、ぴったりの感情を見つけると、すごい。
それだけでパア――ッ、と表情を変える子までいますよ。

道徳の授業でも、

うれしい、かなしい、さみしい、たのしい、おもしろい、ゆかい、せつない、つまらない、くらい、気に喰わない、気に入った、というような感情を示す言葉を、正直に書かせるようにします。

そこから考えていくと、授業がうわっつらにならないで、自分の正直な気持ちで考えるようになるのではないかと思うネ。

leonardo_da_vinci