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さむらいは、いねむりをしていたか、していなかったか

これは、立場をはっきりさせる発問だ。

起きていたのなら、子どもが笑ったことも分かっただろう。
寝ていたのなら、子どもが笑ったことは分からないはず。
さむらいが、子どもたちに笑われたかどうか。そのことを、さむらい自身がどう感じているか。
どちらでもない、という答えが出にくい。

子どもたちは、きれいに半分程度に分かれた。

「いねむりをしていた」派の根拠は、
ぽかぽかあたたかいので、そのうちにいねむりをはじめました。
という叙述にある。

だって、いねむりをはじめました、と、明記してあるじゃないか、というのだ。

いねむりをはじめた、と書いた以上、実際に寝たのだろう。
そうとしか考えられない、と主張する。


かたや、「いねむりしていなかった」派は、少し押され気味になりながらも、
いねむりをしていたはずのさむらいは、ぱっちり眼をあけて、

という叙述部分をあげる。

・・・はずの、というところが、ミソだ。

〇〇していたはず、というのは、ほぼ確定していたと思われている事実が、実はそうではなかった、という場合に使われる。
だから、作者である新美南吉自身も、「さむらいはいねむりをはじめた」とつい書いてしまった。だがしかし、そうであった「はず」のさむらいは、実は親子の様子をしっかりと分かっていて、大事な場面ではきちんと目をあけて、観察している。これは、「眠っていたはず」であろうが、実は「眠ってなどいなかった」ということなのだ、という。

いや、子どもが騒いだから起きたんじゃないの、という意見も出た。

なるほど、じゃあ、次に考える【学習問題】は・・・
さむらいが起きたとしたら、いつ起きたのか。

だね。

みんな、自分たちが発案した問題だから、意気揚々と取り組んでいきます。

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