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迷惑をかけるから、廊下でしゃべってはいけない。
迷惑をかけるから、体育館でボールを蹴ってはいけない。
迷惑をかけるから、校長先生の話をきくときは、黙っていなければならない。
迷惑をかけるから、授業中に立ち歩いてはいけない。
迷惑をかけるから、掃除をしなければならない。
迷惑をかけるから・・・

さて、こういう『禁止規範意識』が、わりとへいきな子もいるかわりに、
こういう「しなければならないルール」の多さで、メンタルがまいってしまう子もいる。

ユニバーサルデザインを意識すれば、当然、この

「迷惑をかけるから・・・ルール」のあり様とはべつに、
どの子にとっても優しい、受容しやすい、指導の在り方、というものがあるだろうと思う。
(↑これは仮説ね)

本当は、しゃべりたいときにしゃべりたい。
でも、しゃべっちゃいけない。
本当は、体育館でボールを蹴りたい。
でも、蹴っちゃいけない。
本当は、校長先生がしゃべっているときに、何か言いたい。
でも、言っちゃいけない。
本当は、掃除をしないで、水槽の魚を見ていたい。
でも、見てちゃいけない。


『規則・禁止事項・命令』が身の回りにたくさんあるんだ、と、
頭の中で思うだけで、「ウワーッ!」と叫びたくなる子、いるんです。
かつての、子どもの頃の自分を考えても、よく分かる。
わたし自身は子どもの頃、ずっとこうでしたナー・・・
(世の中は広いから、まったく命令や規則に抵抗感を覚えない人もいるのかもしれない?)


で、問題なのは、
そういう子を見た時に、その子自身を見られなくなること。
その子の実際の姿、その子らしさが見えないでいること。

目に映る現象、その子の姿だけを見ている先生の目には、
「ルールを破って言うことを聞かず、勝手なことばかりやる子」
としか見えない。1年間、ひどい場合は2年間も3年間も、ずっとそうとしか見えない。

その子自身の本当の姿が見えないまま、

「言うことを聞けない子」

と見ているだけで、過ぎてしまう。

なぜかというと、あまりにも先生の中で、

「規則通りに行動すること」

が巨大化していて、そのことが重要すぎるので、それ以外が目に見えなくなる、ということ。

迷惑をかける、かけない、ということに学校教育がこだわりすぎていて、
「その子らしさ」を見よう、というエネルギーが湧いてないのではないだろうか。



廊下を歩くときにおしゃべりしたくなるのは、
本当は「おしゃべりがしたいからする」ではない場合が多いと思うね。
人の気を惹きたかったり、友だちに笑ってほしかったり、
自分がさびしかったり、なにかその後のことで不安があったり、など
その行為(おしゃべり)になる原因、過程もあるだろう。
自分ではどうにもならない気持ちがあって、不安やさびしさが募って・・・
ということ、あると思う。

そこを理解しよう、というふうにならずに、ダメだなおしゃべりする子!としか見ないのであれば、さみしさ、不安にますます拍車がかかるだけ・・・。


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