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子ども自身は、人間の価値を、あまり詮索しないというか、
そもそも人間を比べることの意味を求めようとしないように思う。

子ども社会では、ひとを価値づけることに重点を置くよりも、
一度しかない、わたし自身にとっての体験に意義を置く。
かけがえのなさ、が重要なのだ。

他と比べると、しらける。
だから、〇〇は△△よりも価値が高いとか、低い、ということに、
気持ちを盛り上げていこうとしない。

いわば、◇を◇としてみる、ということをやっている。
ただそのまま、△を△としてみる、ということ。

そもそも、子どもは、難しいことをあれこれと考えないし、
悩むのはきらいだし、明確ではないことを無意識に避けようとする。

したがって、四角いものを、「いや、これは三角だ、三角であるべきなのだ」とは言わない。
仮に、大人がそう言っているのを聞いたとしても
子どもは、その「大人の事情」を理解しません。
子どもたちは、もともと、『忖度』をしない文化に暮らしているのです。

そういう意味で、子どもは徹底したリアリストであり、実証を重んじようとします。





・・・だからかもしれません。

教室では、戦前の教科書のような言い回しを、徹底して笑いのめしますナ!

日本は神の国なので、国難を迎えた時、神風が吹いて、元軍の乗った敵船をことごとく沈めました。

日本は神の国だから、神が風を起こして、敵の船を沈めることも有り得る!!


と、大人がいかに力強く断言したところで、リアリストである子どもたちは、相手にしないでしょう。

大人があてはめるカチを、表面上、一応は受け入れているようだけれども、

実際には、べつに、それほど、カチなんかにこだわらないのです。
「どっかのだれかが、勝手に設定した価値」なんかには。

どこかの人が、ある人をAと評価しようが、Bと評価しようが、どんなふうに価値づけようが、
丸いものは丸いのだし、四角いものは四角い、と考えるのです。



小難しい解釈の世界に入って、

本来は三角であるべきだ、とか、
ダイヤの形が正当なのだ、とか、
どっちが元祖だ、とか。

価値の解釈に拘泥したり、しないのです。

日本という国はすごい!神風が吹く!と言われても、

「その神風、太平洋戦争では吹かなかった、沖縄では吹かなかった」

と、知っているのです。



結局、丸いものは、丸いので。
誰かの意見や感想があれば、四角くなるというわけがない。


やっぱり、事実を見ないのは、大人の癖だという気がするネ。

かみかぜ