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ほとんど、テレビを見ない。
本も新聞も見ない。
情報のインプットをしない生活が、ここ15年くらい続いている。
したがって、わたしはおそらく、世の中と、かなりの程度、ずれている。
小学校の教師をしていると、子どもからのINPUTが多すぎて、気分的に、
残りの時間はずっと、OUTPUTをしていないと、身が持たない。
これ以上、新聞もテレビも、もう要らない、情報が多すぎる、おなかいっぱい、という日常だ。
だから、世間のことがよく分からない。
今はとくに、それに拍車がかかり、
ここ(当ブログ)に書いた文章も、かなりおかしいのだと思う。
世間的に見たら、話の論点がずれまくっている。
それも仕方のないことで、
わたしがほぼ一日中、年がら年中、つきあっているのは「子どもたち」であります。
わたしが会話を交わす相手の中に、大人はほとんど、いない。
いやいや、待てよ、
職員室の先生がいるでしょう、と思うでしょう?
ところが
職員室の先生は、一日の大半を子どもといっしょに話している大人です。
一日の大半を、大人と過ごしている大人が、職員室にはいないのです。
どの先生も、子どものにおいが、骨の髄まで、滲み付いている。
だから、職員室の先生たちは、まあいってみれば、
かなり偏っているわけですね。
とくに、わたしのように、毎日まいにち、
> > 家を出る→車で通勤する→学校につく。
> > 学校を出る→車で通勤する→家につく。
を何度も何度も、飽きるほど繰り返しているだけでは、
年間を通じて、ほぼ、まともな大人との会話がありません。
がんばってコンビニの店長(近所のおやじ)に話しかけたところで、
支払いを済ませるまでの数秒間、ただの時候の挨拶程度で終わってしまいます。
先日は、スーパーで、偶然にも出会った地元の知り合いに、
チャンスとばかりに話しかけてみたものの、相手も買い物の途中で
「じゃ」、と早々に切り上げられてしまった。
懸命な努力の甲斐も無く、いつまでたっても、普通の「おとな」と話が出来ない。
したがって、わたしの世界は、新橋の屋台で呑んでる中高年のサラリーマンとは、
まったく違ってきています。
感覚も、話す中身も、判断基準にするものも、善し悪しの観念も、ぜんぶちがってきている。
べつに、新橋のサラリーマンが日本の大人の標準だ、というわけではないが、
わたしが相手にしているのが「子どもの文化」である、という意味で、
わたし自身があまりにもそこに純粋に、どっぷりと、
毎日の生活の大半の時間を費やしていることから、
わたし自身が偏っているのであろう、ということは、説明ができると思うのです。
毎日、毎日、
少しずつずれて・・・
世の中の大人を全員、ずーーっと、一列にグラデーションのように並べるとしたら、
わたしはほぼ、世間という橋のとことん端の方、落っこちそうな場所に立っている。
このブログで、わたしは
端っこの方に、孤独に立っていることのさみしさ、ギャップ、
あきらめ、ずれ、・・・そういうものを書いている、というわけです。
さ、書くぞ。

ほとんど、テレビを見ない。
本も新聞も見ない。
情報のインプットをしない生活が、ここ15年くらい続いている。
したがって、わたしはおそらく、世の中と、かなりの程度、ずれている。
小学校の教師をしていると、子どもからのINPUTが多すぎて、気分的に、
残りの時間はずっと、OUTPUTをしていないと、身が持たない。
これ以上、新聞もテレビも、もう要らない、情報が多すぎる、おなかいっぱい、という日常だ。
だから、世間のことがよく分からない。
今はとくに、それに拍車がかかり、
ここ(当ブログ)に書いた文章も、かなりおかしいのだと思う。
世間的に見たら、話の論点がずれまくっている。
それも仕方のないことで、
わたしがほぼ一日中、年がら年中、つきあっているのは「子どもたち」であります。
わたしが会話を交わす相手の中に、大人はほとんど、いない。
いやいや、待てよ、
職員室の先生がいるでしょう、と思うでしょう?
ところが
職員室の先生は、一日の大半を子どもといっしょに話している大人です。
一日の大半を、大人と過ごしている大人が、職員室にはいないのです。
どの先生も、子どものにおいが、骨の髄まで、滲み付いている。
だから、職員室の先生たちは、まあいってみれば、
かなり偏っているわけですね。
とくに、わたしのように、毎日まいにち、
> > 家を出る→車で通勤する→学校につく。
> > 学校を出る→車で通勤する→家につく。
を何度も何度も、飽きるほど繰り返しているだけでは、
年間を通じて、ほぼ、まともな大人との会話がありません。
がんばってコンビニの店長(近所のおやじ)に話しかけたところで、
支払いを済ませるまでの数秒間、ただの時候の挨拶程度で終わってしまいます。
先日は、スーパーで、偶然にも出会った地元の知り合いに、
チャンスとばかりに話しかけてみたものの、相手も買い物の途中で
「じゃ」、と早々に切り上げられてしまった。
懸命な努力の甲斐も無く、いつまでたっても、普通の「おとな」と話が出来ない。
したがって、わたしの世界は、新橋の屋台で呑んでる中高年のサラリーマンとは、
まったく違ってきています。
感覚も、話す中身も、判断基準にするものも、善し悪しの観念も、ぜんぶちがってきている。
べつに、新橋のサラリーマンが日本の大人の標準だ、というわけではないが、
わたしが相手にしているのが「子どもの文化」である、という意味で、
わたし自身があまりにもそこに純粋に、どっぷりと、
毎日の生活の大半の時間を費やしていることから、
わたし自身が偏っているのであろう、ということは、説明ができると思うのです。
毎日、毎日、
少しずつずれて・・・
「世の中を 少しずつずれ 葱を噛む」
世の中の大人を全員、ずーーっと、一列にグラデーションのように並べるとしたら、
わたしはほぼ、世間という橋のとことん端の方、落っこちそうな場所に立っている。
このブログで、わたしは
端っこの方に、孤独に立っていることのさみしさ、ギャップ、
あきらめ、ずれ、・・・そういうものを書いている、というわけです。
さ、書くぞ。
