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子どもを見ていて不思議になってくるのは、

「あ、遊びにいこ!」

「うん!」

という会話があることです。

そして、一目散に、くつ箱へ行き、外に行くことです。



で、なんの打合せも無く。

そのまま、校庭へ行きます。

ともかく、走る。

で、息をはずませて、ハァハァ、と。

わたしがようやっと追いつくと、

「あ、先生も来たんだ」



大人は、こうはいきませんね。

「〇〇さん、話しかけてもいい?」

という許可の申請が入り、

「えっと、わたし今から遊びに行こうと思うんだけど、ご一緒しない?」

「ああ、いいですね。何しましょうか」

「そうですねえ。雲梯(うんてい)と砂場のところで、おにごっこでもしましょうか」

と、まあ、

大人なら、ぜったいに予定を立てるでしょ。

さて、そこから、

何をするのか、討議が始まる。

「そうねえ。おにごっこは疲れそうだから、ダンゴムシでも探しましょうか」

「ダンゴムシ、いるかなあ・・・いなかったら、どうしましょうか」

「いなかったら、砂場を掘って、トンネルをつくりましょう」

第二案、ときには第三案まで、用心深く、決定しておく。

「いいですねえ。トンネルをつくりましょう」

「そうしましょう、そうしましょう」

歩いて、ゆっくりと砂場に向かいます。

さて、砂場について、ダンゴムシを探しているとき、いろいろと思います。

「ほら、やっぱりいない。だからわたしは、鬼ごっこにしよう、と誘ったのに」

案の定、すぐに休みの終わりを知らせるチャイムがなり、教室へ帰ることになる。

(ああ、休み時間が、すぐ、終わってしまった)

(うーん、最初から、鬼ごっこにしておけばよかった)





子どもが、遊ぶ、というときの、遊ぶ、という状態は、たぶん、ともかく遊ぶ、ということだと思います。

いっしょになって、いっしょにいる、という状態です。

そのとき雲梯があれば、つかまるし、

たまたま砂場があれば、砂を掘り返す、という意味です。

なにかをしよう、と予定をたてて、スムーズに事を進めて、みんなが満足するように配慮しましょう、という世界ではない。

おかしいですね。お互いに配慮しようとすればするほど、満足が遠ざかっていくのです。大人の世界だとネ。

子どもは、まるきりそんな配慮しないけれど、全員が文句なし、です。

校庭の隅へ出かけよう、と思いついた時点で、一人ひとりが大満足なのです。


最初から、満足。

遊ぶ前から。

つまりは、子どもだけが、遊ぶことのホントの楽しさを、知っている、というわけネ。