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小さな生き物を知るのは、
はるかかなたの宇宙を思うのと、似ている。

人間の手が触れていない“いのち”に畏敬の念をもつのは
だれしもそうだと思う。

宮沢賢治は、ひとの手がふれない、小さな、把握できないような命を
掌編「やまなし」で、クラムボンと表現したのではないか。

yamanasi


『クラムボンはわらつたよ。』
『クラムボンはかぷかぷわらつたよ。』
『クラムボンは跳てわらつたよ。』
『クラムボンは死んだよ。』
『クラムボンは殺されたよ。』

これはクラムボンに関するダイレクトな描写だ。
宮沢賢治は、
水の中で一生をすごす蟹の子どもらに、このセリフを言わせている。
ここだけを抜書きしてみると、いかにも小さな生き物が
わらったり、跳ねたり、している姿が想像される。

では、クラムボンとはいったい何なのか。
重大なヒントが、最後に出てくる。

クラムボンは、最後に殺されます。
直前までわらったり跳ねたりして、
いかにも楽しそうだったクラムボンが殺されてしまいます。

食べられた、とか
無くなった、とか
消えた、というのではなしに。
『殺された』。
こう表現したところが、さすがに宮沢賢治。

となると、おそらく、クラムボンとは、
水中のプランクトンだとかそんなものではなく、
ある種、しっかりと自分の意思でもって、
「生きよう」
と行動する生き物をさすのではないか。

だとすると、これは、もうハッキリしてきましたね。
プランクトンとか、微生物なんかより、もっと大きなものです。

かぷかぷ

という音がミソでしょう。
みなさん、2枚の貝を合わせたところを想像してください。
その貝を、まるでシンバルのように合わせて音をさせてください。

ほら。
カプカプ、と音がするでしょう?


というわけで、クラムボンとは、「貝」のことだと分かります。





という話を、種々たくさんある説のうちの一つとして昨年まで紹介していたが、
今はそう思わない。

カニの子どもだって、貝のことは、きちんと

「貝がね、わらっていたよ」

と言うでしょうから。

水の中に生きている蟹の子が、貝を知らぬわけがない。
父親だって、「あれは貝だよ」と教えるでしょうし。
現に、父親は、「カワセミ」について、きちんと固有名詞を教えていますから。
貝をわざわざ、クラムボンなんて、空想じみた名称で呼ぶわけがない。

なので、貝だ、という説は破綻します。
同様に、父親からきちんと教えてもらえる可能性があるものとして
※アメンボ・ゲンゴロウ説
※光の輪説
※あわ説
なども同時に消去します。
この父親、なかなか賢いですよ。
きちんと、分かってる。
カワセミが魚を狙うこと、やまなしが熟して酒になることなど、およそ自分たちの生活環境の周りで起こり得ることを、きちんと正確に把握している。
この父親から、

「あれは貝だよ」
だとか
「あれは光が差してきているんだ」
とか
「あれはお前たちも出してるだろ、泡だよ」
とか、
教わらないはずがない。


クラムボンとは、得体のしれない生き物。
まだ、正体が一部、わからないもの。
あるいは、蟹の父親にさえも、その正式な名称が分からないもの。
(もしくは、宮沢賢治にさえも・・・)


しかし、クラムボンは生きて笑ったりはねたりするし、
生きてこの世を謳歌しよう、という意志を感じさせる。
で、最終的には殺されたりする。



これはネ。

おそらく、人間がまだ知らない生物のことをさしているんだナ。
だから宮沢賢治も、「クラムボン」なんていう、未知の名称で呼ぶしかなかったのだ。

たぶん、わたしの思うに、
ちっちゃな小人かなんかのことじゃないのかね。

クラムボン=小人(こびと)説です。
アイヌは、「コロポックル」とも言いますね。

音韻も、似てます。
クラムボン→ KU・RA・MU・BON
コロポックル→KO・RO・PO・KU・RU

こじつけかなあ。

でも、宮沢賢治はアイヌのことも研究していたようだから(確信)。
どうでしょうか。

大人の宿題クラムボン4