.
このブログは、2006年の1月に書き始めた。
いつの間にか、10年が経つ。
さて、なぜ、こんなタイトルなのか。
理由は簡単で、「叱るのって、なんか変」だ、という気分が抜けないからだ。
ここが多くの教育者と異なる部分で、
「いや、べつに叱るのが変ってことはないでしょう。ふつうでしょう。当たり前ですよ」
という方がほとんどだろう。
未だかつて、自分と同じ気分の先生には、ほとんど出会ったことがない。
そもそもなんで、「叱るのって、変」という感じを持っているのだろうか。
「人は基本的に、自由だろう」
と、思っているから?
元来自由である人間を、強く圧迫して、行動を強制する、ということがあるとしたら、それはもうどうにも、自分にはできない相談なのである。
だから、廊下を走り抜けていく1年生を見て、
「ぶつかったら危ないよぅ」
と注意するけれど、そこには根本的に、
「廊下を走るのも歩くのも、その人の自由意志を妨げることはしょせん、無理だよな」
と、どうしても抜けない、私自身の感じ方があるのである。
もう一つは、叱るのはダメ、とも思っていないことである。
叱りたくなるのも愛の作用だと思う。
関わろうとする気持ちは、人間の愛だと思う。
だから、叱る、ということの本当の意味は、愛の作用だとも思っている。
しかし、それは、下手なやり方であり、相手に恐怖感を抱かせたり、敗北感を植え付けたり、心を捻じ曲げるような屈辱感を与えたりするような言動がもしあったとすれば、それは愛が狂って発露したので、人間を馬鹿にしたことになると思う。
そもそも、究極な考えを言うと、憎しみも愛だと思っている。
相手が憎い、という気持ちは、どんどん煎じ詰めて、突き詰めて考えていくと、(多くの人はそんなことを考えもしないだろうけど)、究極的にたどり着くのは、相手を愛したいという気持ちが発露できずにねじ曲がったことで、自分の中に湧いた苦しみの念なのだろうと考えている。
『かわいさ余って憎さ100倍』という言葉があるけれど、愛したいけど愛せない場合は、自分の中の矛盾が処理できずに持て余した苦しみを、とうとう最後に相手に向けざるを得ないのであろう。
だから、叱りたくなる気持ちや、相手を圧迫してしまったり、脅したくなる気持ち、言うことを聞かせたくなる気持ちも、痛いほどに分かるのである。
ただし、そこから、次に行きたいのである。
もっと、人間は、うまくやれる、と思うのである。
で、そこからいろいろと考えて、現在のところ、「叱らない先生」をやっているわけ。
わたしが教員生活を実践しながら、いくつかみつけたポイントがある。
最後の、さだまさし作「案山子」については、補足が必要であろう。
わたしは本当はアナーキー・イン・ザ・U.K./アイ・ワナ・ビー・ミー、などが大好きなパックロック青年だったのだが・・・

だがしかし、教員であれば毎日のように、
という心境になるのである。
これが、なぜ「叱らないでもいいですか」なのか。
その理由ってわけ、ね。
自分も子どもだったからね。

このブログは、2006年の1月に書き始めた。
いつの間にか、10年が経つ。
さて、なぜ、こんなタイトルなのか。
理由は簡単で、「叱るのって、なんか変」だ、という気分が抜けないからだ。
ここが多くの教育者と異なる部分で、
「いや、べつに叱るのが変ってことはないでしょう。ふつうでしょう。当たり前ですよ」
という方がほとんどだろう。
未だかつて、自分と同じ気分の先生には、ほとんど出会ったことがない。
そもそもなんで、「叱るのって、変」という感じを持っているのだろうか。
「人は基本的に、自由だろう」
と、思っているから?
元来自由である人間を、強く圧迫して、行動を強制する、ということがあるとしたら、それはもうどうにも、自分にはできない相談なのである。
だから、廊下を走り抜けていく1年生を見て、
「ぶつかったら危ないよぅ」
と注意するけれど、そこには根本的に、
「廊下を走るのも歩くのも、その人の自由意志を妨げることはしょせん、無理だよな」
と、どうしても抜けない、私自身の感じ方があるのである。
もう一つは、叱るのはダメ、とも思っていないことである。
叱りたくなるのも愛の作用だと思う。
関わろうとする気持ちは、人間の愛だと思う。
だから、叱る、ということの本当の意味は、愛の作用だとも思っている。
しかし、それは、下手なやり方であり、相手に恐怖感を抱かせたり、敗北感を植え付けたり、心を捻じ曲げるような屈辱感を与えたりするような言動がもしあったとすれば、それは愛が狂って発露したので、人間を馬鹿にしたことになると思う。
そもそも、究極な考えを言うと、憎しみも愛だと思っている。
相手が憎い、という気持ちは、どんどん煎じ詰めて、突き詰めて考えていくと、(多くの人はそんなことを考えもしないだろうけど)、究極的にたどり着くのは、相手を愛したいという気持ちが発露できずにねじ曲がったことで、自分の中に湧いた苦しみの念なのだろうと考えている。
『かわいさ余って憎さ100倍』という言葉があるけれど、愛したいけど愛せない場合は、自分の中の矛盾が処理できずに持て余した苦しみを、とうとう最後に相手に向けざるを得ないのであろう。
だから、叱りたくなる気持ちや、相手を圧迫してしまったり、脅したくなる気持ち、言うことを聞かせたくなる気持ちも、痛いほどに分かるのである。
ただし、そこから、次に行きたいのである。
もっと、人間は、うまくやれる、と思うのである。
で、そこからいろいろと考えて、現在のところ、「叱らない先生」をやっているわけ。
わたしが教員生活を実践しながら、いくつかみつけたポイントがある。
1) 先生の願い、先生の気持ち、先生の視線を、できるだけ子どもに伝える。
2) 人間とは、「自分を大切にする」お互いである、というのを前提にする。
3) 「わかりやすさ」を大事にする。
4) 帰りの車の中で、さだまさしの案山子を聞く。
最後の、さだまさし作「案山子」については、補足が必要であろう。
わたしは本当はアナーキー・イン・ザ・U.K./アイ・ワナ・ビー・ミー、などが大好きなパックロック青年だったのだが・・・

だがしかし、教員であれば毎日のように、
元気でいるか 街には慣れたか
友達出来たか 寂しかないか
という心境になるのである。
お前も都会の雪景色の中で
丁度 あの案山子の様に
寂しい思いしてはいないか
体をこわしてはいないか
これが、なぜ「叱らないでもいいですか」なのか。
その理由ってわけ、ね。
自分も子どもだったからね。
