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6年生を担任するのは、もう二度とないかもしれないと思うと、
書き留めておきたくなる。今日のは、そんな話。
今年6年生を担任したことは、自分にとって、とても大きなことだった。
何よりも、政治が激変中。
そこで、子どもたちと、社会とは何か、政治とは何か、と考え合うのはとても大きな体験だった。
ある子ども(わたしのクラスではない)が、将来の夢を問われて
「総理大臣になりたい」
と書いたそうだ。
その理由が、
「今の総理大臣がダメな人だから、自分がなって日本をもっと良い国にする」
だったそうだ。
これは、現役教師として、とてもよく分かる。
わたしが子どもの頃とはまったくちがうと思う。
感じ方も、知識を欲する意欲も、桁違いに変化している。
今の子どもたちは、なにかを感じている。
政治、というものに。
この国の未来と不安、ということに。
社会科の追究テーマは、
いきなり4月の段階で、子どもたちは巨大な疑問にぶち当たる。
つまり、子どもなりの
「幸福」というものの観方
を問われたのである。
・自分はいったい、なにを幸福とするのか
・いったい、なにが幸福といえるものなのか
これは大論争になった。
教科書的には、弥生時代に他との競争、他を敵とみなす、ということが始まっている。
実際に、埋葬された人骨の頭部に貫通跡があることから、戦で命を落とすということがあったようだ。
縄文時代のさし絵には、堀もなければ武装もなく、人骨に貫通跡もみられない。
これはいったい何だろうか?というわけだ。
子どもたちは、おそらく弥生時代の方が豊かだろう、という予想を持った。
しかし最新の調査では、縄文時代の地層から多様な種、殻、食糧の痕跡が見つかっていて、貝塚の発掘調査からも豊穣な食生活の跡がみてとれる。
弥生時代は豊かだろうが、幸福だったか、と問われると、ほぼ全員が「ちがうと思う」と。
秋になると、フランスでテロが起き、ISISが話題となってきた。
空爆の映像がテレビで流れ、誤爆で命を落とす子どもの写真が新聞に掲載されるようになる。
この時の話題は、
国語の教科書では、ちょうど「ヒロシマ」についての論説文(意見文)を学んでいるとき。
子どもたちの意識は、だれもが自然と「戦争」に向いている頃だ。
このときのクラスの話題は、
「戦争とは、人を殺すこと」
であった。
殺されるのと、殺すのと、どちらを避けたいか。
究極の問いだと思う。
しかし、これが子どもたちの考察文から浮かび上がってくる。
ちょうど歴史学習で幕末、明治維新とつづき、列強が植民地を支配するころを学習中。
日清・日露戦争で、死者が十万人、と習っている。
与謝野晶子の有名な、「君、死にたまふことなかれ」で、2つの意見が出た。
この「君」、というのは彼女の弟のことだ、という説と、
相手の国の、見知らぬ「息子」のことも含めて詠んでいる、という説の2つだ。
もしかすると、この歌はいくつもの意味を多層に詠んでいるのかもしれない。
弟に、「死ぬなよ」と言いつつも、彼の国の見知らぬ弟にも、「死ぬな」と言うのであるから。
「弟よ、お前も死ぬな、そして殺すな(彼の国の見知らぬ弟も死ぬな)」
答えは分からないが、『人を殺す、ということ』がクローズアップされてきた問いであった。
国語の教科書では、ヒロシマが語られ、どちらかというと、殺される話が多い。
被ばくはもちろん、炎にまかれて焼け死んだ話、黒い雨に打たれて死んだ話。
しかし、社会科では、両面が出てくる。
実は人間にとって、一番残酷な仕打ちは、「殺される」もそうだが、「殺す」でもあるのではないか、というのが、子どもたちの解である。
人を殺さなければならないという立場は、究極の責苦であろう、というわけだ。
こんなことまで、学習するべきではない、という意見もあるだろうと思う。
しかし、通常の学習をしていたら、当然、行きついてしまうのである。
「人を殺す、ということは、どういうことか」
という問いは、小学校6年生にふさわしいかどうか、私には判断できない。
教科書を順番に読むだけの授業であれば、この問いに向き合わなくても済むかもしれない。
でも、アクティブラーニングで意見を言い合っていたら、どうしようもなく、浮かび上がってくる。
子どもたちは、
「なんで人間は、こんなに10年おきに戦争するんだろう?」
と、しぜーん(自然)と、思うものなのである。
ごく、ふつーの感覚で、そう思う、らしい、のである。
毎日、いじめはいけない、と教えながら、「大人は人を殺しているけどね」というのが、どうにも違和感を持つ、というのが、子どもなのであろう。この違和感は、仕方のないことでしょう?
6年生を担任するのは、もう二度とないかもしれないと思うと、
書き留めておきたくなる。今日のは、そんな話。
今年6年生を担任したことは、自分にとって、とても大きなことだった。
何よりも、政治が激変中。
そこで、子どもたちと、社会とは何か、政治とは何か、と考え合うのはとても大きな体験だった。
ある子ども(わたしのクラスではない)が、将来の夢を問われて
「総理大臣になりたい」
と書いたそうだ。
その理由が、
「今の総理大臣がダメな人だから、自分がなって日本をもっと良い国にする」
だったそうだ。
これは、現役教師として、とてもよく分かる。
わたしが子どもの頃とはまったくちがうと思う。
感じ方も、知識を欲する意欲も、桁違いに変化している。
今の子どもたちは、なにかを感じている。
政治、というものに。
この国の未来と不安、ということに。
社会科の追究テーマは、
◎縄文時代と弥生時代のどちらが幸福かで始まった。
いきなり4月の段階で、子どもたちは巨大な疑問にぶち当たる。
つまり、子どもなりの
「幸福」というものの観方
を問われたのである。
・自分はいったい、なにを幸福とするのか
・いったい、なにが幸福といえるものなのか
これは大論争になった。
教科書的には、弥生時代に他との競争、他を敵とみなす、ということが始まっている。
実際に、埋葬された人骨の頭部に貫通跡があることから、戦で命を落とすということがあったようだ。
縄文時代のさし絵には、堀もなければ武装もなく、人骨に貫通跡もみられない。
これはいったい何だろうか?というわけだ。
子どもたちは、おそらく弥生時代の方が豊かだろう、という予想を持った。
しかし最新の調査では、縄文時代の地層から多様な種、殻、食糧の痕跡が見つかっていて、貝塚の発掘調査からも豊穣な食生活の跡がみてとれる。
弥生時代は豊かだろうが、幸福だったか、と問われると、ほぼ全員が「ちがうと思う」と。
秋になると、フランスでテロが起き、ISISが話題となってきた。
空爆の映像がテレビで流れ、誤爆で命を落とす子どもの写真が新聞に掲載されるようになる。
この時の話題は、
◎戦争ってどういうもの?である。
国語の教科書では、ちょうど「ヒロシマ」についての論説文(意見文)を学んでいるとき。
子どもたちの意識は、だれもが自然と「戦争」に向いている頃だ。
このときのクラスの話題は、
「戦争とは、人を殺すこと」
であった。
殺されるのと、殺すのと、どちらを避けたいか。
究極の問いだと思う。
しかし、これが子どもたちの考察文から浮かび上がってくる。
ちょうど歴史学習で幕末、明治維新とつづき、列強が植民地を支配するころを学習中。
日清・日露戦争で、死者が十万人、と習っている。
与謝野晶子の有名な、「君、死にたまふことなかれ」で、2つの意見が出た。
この「君」、というのは彼女の弟のことだ、という説と、
相手の国の、見知らぬ「息子」のことも含めて詠んでいる、という説の2つだ。
もしかすると、この歌はいくつもの意味を多層に詠んでいるのかもしれない。
弟に、「死ぬなよ」と言いつつも、彼の国の見知らぬ弟にも、「死ぬな」と言うのであるから。
「弟よ、お前も死ぬな、そして殺すな(彼の国の見知らぬ弟も死ぬな)」
答えは分からないが、『人を殺す、ということ』がクローズアップされてきた問いであった。
国語の教科書では、ヒロシマが語られ、どちらかというと、殺される話が多い。
被ばくはもちろん、炎にまかれて焼け死んだ話、黒い雨に打たれて死んだ話。
しかし、社会科では、両面が出てくる。
実は人間にとって、一番残酷な仕打ちは、「殺される」もそうだが、「殺す」でもあるのではないか、というのが、子どもたちの解である。
人を殺さなければならないという立場は、究極の責苦であろう、というわけだ。
こんなことまで、学習するべきではない、という意見もあるだろうと思う。
しかし、通常の学習をしていたら、当然、行きついてしまうのである。
「人を殺す、ということは、どういうことか」
という問いは、小学校6年生にふさわしいかどうか、私には判断できない。
教科書を順番に読むだけの授業であれば、この問いに向き合わなくても済むかもしれない。
でも、アクティブラーニングで意見を言い合っていたら、どうしようもなく、浮かび上がってくる。
子どもたちは、
「なんで人間は、こんなに10年おきに戦争するんだろう?」
と、しぜーん(自然)と、思うものなのである。
ごく、ふつーの感覚で、そう思う、らしい、のである。
毎日、いじめはいけない、と教えながら、「大人は人を殺しているけどね」というのが、どうにも違和感を持つ、というのが、子どもなのであろう。この違和感は、仕方のないことでしょう?