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さて、前項の続きで、人間が、まともな歩き方を忘れてしまう、ということについて、個人的な体験を書く。
わたしの通った「いとう幼稚園」は、「赤組、青組、黄色組、緑組」というように分かれていた。
幼児にとって、色のイメージは強烈だ。
当時わたしは、叔母にもらった「ももたろう」の絵本を愛読していた。
間の悪いことに、その絵本に登場してくる鬼のカラーが、
「赤鬼、青鬼、黄色鬼、緑鬼」であった。
どうです。
なんとなく、良くない予感がするでしょう?
不幸なことに、赤組の先生は、パーマをかけていらした。
そして、運の悪いことに、「ももたろう」のさし絵の赤鬼も、パーマ風に描かれてあったのである。
パーマの先生は、赤組。
パーマのさし絵は赤鬼。
幼くて、馬鹿で、まだ考える力の足りなかった私が当時どう思ったのか、みなさん具体的に想像できますよね。
そうです。
鬼ヶ島から派遣されてきたのだ!と、思ってしまった。
なんとなれば、当時の先生たちは大変に明るいキャラであったが、一方で、これまた、たいへんに怒りっぽかったからなのです。(私から見ると)
とくに、仲の良かった「だいすけ」くんが、あまりにも言うことを聞かないで騒いでいるため、赤組の先生がだいすけくんを抱え上げて、幼稚園の入り口にあった『蓮の池』に放り込むアクションを魅せたときには、心臓が凍りつきそうになった。
まちがいない。
先生たちは、鬼ヶ島からやってくるのだ。
あの先生たちは、ふだんはやさしいが、一皮むくと、その正体は鬼なのだ!
たぶん、人間がまともに歩けなくなる理由は、以上のようなことでしょう。
つまり、恐怖体験なのではないでしょうか。
3歳までは「この世は天国。助け合い、認め合って生きていくのだ」と思っている。
しかし、恐怖体験があると、天地がひっくり返るほどの衝撃でもって、
「この世は地獄。腕力の強いものが意図したようにふるまわなければ、殺されるのだ」
と思ってしまいます。
わたしは、自身をとりまく全世界が薔薇色に思えた3歳までの記憶を懐かしむようになりました。
ところで、中学生くらいになってから、なにかのタイミングでこういう話を姉にしたところ、姉は覚めた目をして、冷たくこう、言い放ちましたね。
「よかったねー。そこで現実に出会えて」
つまり、現実は厳しく、腕力に支配されており、個人の意思を曲げて権力に従順にふるまわなければ殺される、ということなのでしょう。
当時受験を控えていた姉にとっては、まさにそれが現実だったのかもしれません。
わたしもまた、
「現実が地獄であり、地獄が現実なのだ」
と自分を言い聞かせるようにして、ガラスの十代を生き抜いてきたような気がします。
ところが、叱らないクラスをやっていると、毎日げらげらわらっているうちに過ぎていく。
楽しくて仕方がない。
子どもがなんとも頼もしく思えてくる。
自分からどんどんやるようになる。
自分からどんどん、聞いてくるようになる。
そして、仲間を助けるようになる。
で、やっぱり現実が地獄、というふうには、もうなかなか、思えないのであります。
やっぱり、3歳までの、あの風景が、真実だったのではないか、とさえ思う。
3歳のときまでに見ていた、バラ色の風景。
だれも責められない世界。
だれも、他を責める気が、起こらない世界。
それが、やっぱ、『現実』なんじゃないだろうか・・・。
叱らないクラスで、たった一つ気を付けてきたことは、「他を責める」ということの、からくりを解き明かそう、としたこと。
友達のことを悪く言おうと思ったときに、なぜそう考えるようになったのか、なぜそういう思考をたどるようになったのか、善悪感で道徳的に躾的に解決しようとしたのではなく、からくりをひもとこう、という意識で子どもたちと考え合ったことでしょうか。
さて、前項の続きで、人間が、まともな歩き方を忘れてしまう、ということについて、個人的な体験を書く。
わたしの通った「いとう幼稚園」は、「赤組、青組、黄色組、緑組」というように分かれていた。
幼児にとって、色のイメージは強烈だ。
当時わたしは、叔母にもらった「ももたろう」の絵本を愛読していた。
間の悪いことに、その絵本に登場してくる鬼のカラーが、
「赤鬼、青鬼、黄色鬼、緑鬼」であった。
どうです。
なんとなく、良くない予感がするでしょう?
不幸なことに、赤組の先生は、パーマをかけていらした。
そして、運の悪いことに、「ももたろう」のさし絵の赤鬼も、パーマ風に描かれてあったのである。
パーマの先生は、赤組。
パーマのさし絵は赤鬼。
幼くて、馬鹿で、まだ考える力の足りなかった私が当時どう思ったのか、みなさん具体的に想像できますよね。
そうです。
鬼ヶ島から派遣されてきたのだ!と、思ってしまった。
なんとなれば、当時の先生たちは大変に明るいキャラであったが、一方で、これまた、たいへんに怒りっぽかったからなのです。(私から見ると)
とくに、仲の良かった「だいすけ」くんが、あまりにも言うことを聞かないで騒いでいるため、赤組の先生がだいすけくんを抱え上げて、幼稚園の入り口にあった『蓮の池』に放り込むアクションを魅せたときには、心臓が凍りつきそうになった。
まちがいない。
先生たちは、鬼ヶ島からやってくるのだ。
あの先生たちは、ふだんはやさしいが、一皮むくと、その正体は鬼なのだ!
たぶん、人間がまともに歩けなくなる理由は、以上のようなことでしょう。
つまり、恐怖体験なのではないでしょうか。
3歳までは「この世は天国。助け合い、認め合って生きていくのだ」と思っている。
しかし、恐怖体験があると、天地がひっくり返るほどの衝撃でもって、
「この世は地獄。腕力の強いものが意図したようにふるまわなければ、殺されるのだ」
と思ってしまいます。
わたしは、自身をとりまく全世界が薔薇色に思えた3歳までの記憶を懐かしむようになりました。
ところで、中学生くらいになってから、なにかのタイミングでこういう話を姉にしたところ、姉は覚めた目をして、冷たくこう、言い放ちましたね。
「よかったねー。そこで現実に出会えて」
つまり、現実は厳しく、腕力に支配されており、個人の意思を曲げて権力に従順にふるまわなければ殺される、ということなのでしょう。
当時受験を控えていた姉にとっては、まさにそれが現実だったのかもしれません。
わたしもまた、
「現実が地獄であり、地獄が現実なのだ」
と自分を言い聞かせるようにして、ガラスの十代を生き抜いてきたような気がします。
ところが、叱らないクラスをやっていると、毎日げらげらわらっているうちに過ぎていく。
楽しくて仕方がない。
子どもがなんとも頼もしく思えてくる。
自分からどんどんやるようになる。
自分からどんどん、聞いてくるようになる。
そして、仲間を助けるようになる。
で、やっぱり現実が地獄、というふうには、もうなかなか、思えないのであります。
やっぱり、3歳までの、あの風景が、真実だったのではないか、とさえ思う。
3歳のときまでに見ていた、バラ色の風景。
だれも責められない世界。
だれも、他を責める気が、起こらない世界。
それが、やっぱ、『現実』なんじゃないだろうか・・・。
叱らないクラスで、たった一つ気を付けてきたことは、「他を責める」ということの、からくりを解き明かそう、としたこと。
友達のことを悪く言おうと思ったときに、なぜそう考えるようになったのか、なぜそういう思考をたどるようになったのか、善悪感で道徳的に躾的に解決しようとしたのではなく、からくりをひもとこう、という意識で子どもたちと考え合ったことでしょうか。
今は少しは判る気がしますが、戦争をしてはならないと言う話を聞くと、人間の数を減らすしか無いだろうと、といつも思います。
ボコハラムは女性を拉致してまで兵士に宛がうそうで、繁殖する気満々なんだろうなと思います。
生存競争に付いていけない人は、子供を作らない方が幸せだと思います。