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クラスの子が、虫をつかまえて持ってくる。
「せんせい、これ、なに?」
わたしに聞けば、教えてもらえると思っているらしい。
それで、わたしはいつも、
「なんじゃろね」
と返している。
つねに、間違いなく、
「なんじゃろね?」
としか、返答しない教師。
そうであると分かっているのに、かならず毎回、
「先生、これなあに?」
と聞きにくる子どもたち。
なにか、コントのようなやりとりですが、お互いにとても真剣です。
今日も、なにかプラスチックケースに入れて休み時間に捕まえたらしく、
息をはあはあ、とはずませながら、
「せんせい、黒い。黒い。なにこれ?」
わたしはいつもどおり、
「なんじゃろか?」
とつぶやいて、まじまじとその子の顔を見つめる。
彼女は、なにかなあ、という顔をして、虫を指でつついている。
クラスの何人かが、いっしょに覗き込んで、同じように、
「先生、何ムシ?」
わたしは首をひねりながら、
「ええっと、・・・マックロ・テンテン・ハナモゴリがいいな!!いや・・・それとも、ハナムグリダマシっていう方がいいかな!」
とか適当なことを言う。
それが嘘だと分かるらしく、
子どもたちは無反応で、あるいは、
「今の嘘だよネ・・・」
そのまま虫をのぞいている。
わたしはほとんど、虫の名前を言わない。教えない。
うちのクラスの場合は、
「あの例のハチ」
とか、
「緑っぽいイモムシ」
とか、
「ハムシの、茶色の方」
とか、そんな感じで、適当に仲間うちで了解しあっているようです。
朝、教室で、
Sくん 「あのイモムシ、動かなくなった」
Yちゃん 「え、うそ。ほんとだ」
という具合。
ひどい場合は、
「ねえ、あの気持ち悪い方のカメムシさあ・・・」
だとかよんでいて、それで話が通じている。
2匹いるうちの、緑色をしたカメムシじゃない方、それはジンガサハナカメムシなのであるが、模様が奇抜なので、そう呼ばれている。
わたしは、適当に、スケルトングリーン、だとか、エメラルド虫だとか、勝手に呼ぶ。
ただのルリハムシにそういう、たいそう大仰な名前をつける。
子どもたちにも、
「いいか、好きな風に呼んでいいんだぞ。名前をつける、ということを、人間は自由にやってもよいのだ。昔の人だって、良く分からんものには、勝手に名前を付けてたんだからな。」
と、けしかけています。
ネーミングする自由というのを、現代人はもっと味わったらどうか、と。
考えてみると、ぼくら、物事や事象についての命名は、一部のマスコミや知識人、体制側の役人だけがすることだと、思い過ぎていないかしら・・・。
実は同様のことを、フランスなど欧米各国の美術館では進めており、その館の実施する教育プログラムでは、モネやゴッホはもちろん、名だたる芸術家の名作を子どもたちに見せますが、その際、けっして、
「えっと、これの題名はこれこれです」
という説明をしないのだそうだ。
そういう、教育的な取り組みをしているのだそうだ。
なぜそんなことをしてるかって?
つまり、モネやゴッホ、モディリアーニの気持ちになってごらん、ということなんでしょうか、ねえ。
それとも、その子がその絵画の、どこにもっとも関心を持ち、印象をもって味わったのか、ということを、名画にタイトルをつけさせる過程を通じて、発表させようという計画で、そのように仕向けているのか・・・。
ともあれ、図鑑を辞書代わりに見させて、
「はい、正解は、ジンガサハナカメムシです。覚えなさいね」
というアプローチは、どうやら21世紀型の教育ではないようです。知らんけど。
追記:教室に図鑑は常備。それがコツといえばコツですかね。

クラスの子が、虫をつかまえて持ってくる。
「せんせい、これ、なに?」
わたしに聞けば、教えてもらえると思っているらしい。
それで、わたしはいつも、
「なんじゃろね」
と返している。
つねに、間違いなく、
「なんじゃろね?」
としか、返答しない教師。
そうであると分かっているのに、かならず毎回、
「先生、これなあに?」
と聞きにくる子どもたち。
なにか、コントのようなやりとりですが、お互いにとても真剣です。
今日も、なにかプラスチックケースに入れて休み時間に捕まえたらしく、
息をはあはあ、とはずませながら、
「せんせい、黒い。黒い。なにこれ?」
わたしはいつもどおり、
「なんじゃろか?」
とつぶやいて、まじまじとその子の顔を見つめる。
彼女は、なにかなあ、という顔をして、虫を指でつついている。
クラスの何人かが、いっしょに覗き込んで、同じように、
「先生、何ムシ?」
わたしは首をひねりながら、
「ええっと、・・・マックロ・テンテン・ハナモゴリがいいな!!いや・・・それとも、ハナムグリダマシっていう方がいいかな!」
とか適当なことを言う。
それが嘘だと分かるらしく、
子どもたちは無反応で、あるいは、
「今の嘘だよネ・・・」
そのまま虫をのぞいている。
わたしはほとんど、虫の名前を言わない。教えない。
うちのクラスの場合は、
「あの例のハチ」
とか、
「緑っぽいイモムシ」
とか、
「ハムシの、茶色の方」
とか、そんな感じで、適当に仲間うちで了解しあっているようです。
朝、教室で、
Sくん 「あのイモムシ、動かなくなった」
Yちゃん 「え、うそ。ほんとだ」
という具合。
ひどい場合は、
「ねえ、あの気持ち悪い方のカメムシさあ・・・」
だとかよんでいて、それで話が通じている。
2匹いるうちの、緑色をしたカメムシじゃない方、それはジンガサハナカメムシなのであるが、模様が奇抜なので、そう呼ばれている。
わたしは、適当に、スケルトングリーン、だとか、エメラルド虫だとか、勝手に呼ぶ。
ただのルリハムシにそういう、たいそう大仰な名前をつける。
子どもたちにも、
「いいか、好きな風に呼んでいいんだぞ。名前をつける、ということを、人間は自由にやってもよいのだ。昔の人だって、良く分からんものには、勝手に名前を付けてたんだからな。」
と、けしかけています。
ネーミングする自由というのを、現代人はもっと味わったらどうか、と。
考えてみると、ぼくら、物事や事象についての命名は、一部のマスコミや知識人、体制側の役人だけがすることだと、思い過ぎていないかしら・・・。
実は同様のことを、フランスなど欧米各国の美術館では進めており、その館の実施する教育プログラムでは、モネやゴッホはもちろん、名だたる芸術家の名作を子どもたちに見せますが、その際、けっして、
「えっと、これの題名はこれこれです」
という説明をしないのだそうだ。
そういう、教育的な取り組みをしているのだそうだ。
なぜそんなことをしてるかって?
つまり、モネやゴッホ、モディリアーニの気持ちになってごらん、ということなんでしょうか、ねえ。
それとも、その子がその絵画の、どこにもっとも関心を持ち、印象をもって味わったのか、ということを、名画にタイトルをつけさせる過程を通じて、発表させようという計画で、そのように仕向けているのか・・・。
ともあれ、図鑑を辞書代わりに見させて、
「はい、正解は、ジンガサハナカメムシです。覚えなさいね」
というアプローチは、どうやら21世紀型の教育ではないようです。知らんけど。
追記:教室に図鑑は常備。それがコツといえばコツですかね。
