.
前回からの、つづきです。
たとえマチガイがあっても、ああ、なんだそうか、となればいいだけのことなのに、どうして、人の脳の中では、
「責められた」ような、
「良くない」ような、
価値判断や感情と結びついていくのでしょうか。
ある人の考えていたことと、自分の思いがくいちがっていた、ということ、よくありますね。
そもそも、本当に沿う、ということが、どこまでやれているのか。
実際は、無事に沿えているとは限らないはず、同じにならなくて当然だのに・・・(判断ができないはず)。
ある日、2時間目の家庭科の時間は、家庭科室だろう、と思って子どもたちを移動させたら、家庭科の専科の先生が、カンカンになって、
「なんで教室にいないのですか!教室でやります、と言ったでしょう」
子どもたち、叱られた~、と言って、戻ってきました。
ああ、責められたんだ・・・、と思うと、胃が痛くなるような場面です。
「先生、すみません。私が家庭科室だと思って、子どもたちに指示してしまったんです」
遅れて教室に来られた先生に、ひと言伝えます。
でもこれ、胃が痛くなる、ということではないよね。
ああ、よかった。と安心する場面。
なにか事情があって、家庭科室よりも、教室が良かった、ということがある。
で、それを伝えてもらって、その通り、教室に子どもたちがもどってきて、それで授業がやれる。
家庭科室の先生の、とりあえず望み通りになった。
もっというと、
専科の先生の、「教室でやりたかった真意」を
聞けたらもっといいのかもしれないけど、
今となっては、要するに、教室で授業がやれてよかった、
↑ ↑ ↑ それが肝心。
聞いてないぞ、とか、前もって連絡が欲しかった、とか、せっかく家庭科室の前に行ったのに、とか、なにも出てこない。
家庭科の先生の気持ちに、そえてよかった、と思うだけ。
(沿えなくても、じゃ、本当に沿うとは何だったのだろう、と思うだけね)
で、あとで書こうと思うのですが、
カンカンに怒っているのはなぜか、ということについて、
ちょっと考えることがある。
それで、
家庭科の先生が怒っても、
わたしはとくに、困らない。
つづく。

前回からの、つづきです。
たとえマチガイがあっても、ああ、なんだそうか、となればいいだけのことなのに、どうして、人の脳の中では、
「責められた」ような、
「良くない」ような、
価値判断や感情と結びついていくのでしょうか。
ある人の考えていたことと、自分の思いがくいちがっていた、ということ、よくありますね。
そもそも、本当に沿う、ということが、どこまでやれているのか。
実際は、無事に沿えているとは限らないはず、同じにならなくて当然だのに・・・(判断ができないはず)。
ある日、2時間目の家庭科の時間は、家庭科室だろう、と思って子どもたちを移動させたら、家庭科の専科の先生が、カンカンになって、
「なんで教室にいないのですか!教室でやります、と言ったでしょう」
子どもたち、叱られた~、と言って、戻ってきました。
ああ、責められたんだ・・・、と思うと、胃が痛くなるような場面です。
「先生、すみません。私が家庭科室だと思って、子どもたちに指示してしまったんです」
遅れて教室に来られた先生に、ひと言伝えます。
でもこれ、胃が痛くなる、ということではないよね。
ああ、よかった。と安心する場面。
なにか事情があって、家庭科室よりも、教室が良かった、ということがある。
で、それを伝えてもらって、その通り、教室に子どもたちがもどってきて、それで授業がやれる。
家庭科室の先生の、とりあえず望み通りになった。
もっというと、
専科の先生の、「教室でやりたかった真意」を
聞けたらもっといいのかもしれないけど、
今となっては、要するに、教室で授業がやれてよかった、
↑ ↑ ↑ それが肝心。
聞いてないぞ、とか、前もって連絡が欲しかった、とか、せっかく家庭科室の前に行ったのに、とか、なにも出てこない。
家庭科の先生の気持ちに、そえてよかった、と思うだけ。
(沿えなくても、じゃ、本当に沿うとは何だったのだろう、と思うだけね)
で、あとで書こうと思うのですが、
カンカンに怒っているのはなぜか、ということについて、
ちょっと考えることがある。
それで、
家庭科の先生が怒っても、
わたしはとくに、困らない。
つづく。
