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近所の温泉。
私は湯につかって、のんびりと来し方、行く末を案じておりました。
ふと目の前を見ると、小さな男の子が歩いている。
わたしはつい、見てしまう。
いや、ホントは、見る気ないですよ。
でも、目の前をつーっと通っていくのだから、ま、仕方なしに、見てしまう。
目を閉じない限り、見ざるをえない状況だからね。
すると、おしりのふくらみのあたりに、目をうばわれた。
そこになつかしい、「蒙古斑」を見たからであります。
たしか、自分自身も、同じところに蒙古斑があったんじゃないかな・・・。
わたしは目を閉じて、記憶を思い出そうとした。
彼のお尻の、左側の、ちょっと腰骨に近いような不思議な場所に、かすかに、斑がある。
たしか、わたしも、かつて同じようなところ、左側の腰のあたりに蒙古斑があったのではなかったか・・・。
蒙古斑は大和民族以外、モンゴロイド系の人、ネイティブアメリカンにもみられますね。
ところが世界的には知らない人もまだ居て、ヨーロッパの方には、
「これは児童虐待のあざの痕ではないか!?」
と不安に思う方もいらっしゃると聞いた。
ご安心ください。これは、母親から生まれる際に、すでにみられるものです。
さて、私は蒙古斑をあまりじろじろと見ていると変に思われてしまうから、出来る限りすみやかに目をとじて、瞑想に入った。
蒙古斑の彼は、たしかに、自分と縁のある存在だろう。
いつの頃からか、この大和の国、瑞穂の国、秋津の国に、人がにぎやかに住み始めた。
その時から、この子とわたしとは、縁ある間柄であるよう、運命づけられていたのではあるまいか。
こうやって同じ湯につかり、同じ時をすごすことに、なっていたのでは?
それも無理のない話、と私は思う。
少年と、わたしとは、同じ蒙古斑を通して、たしかに、つながっている。
裸の背中を、見渡してみた。
日帰り温泉の洗い場の、腰掛にすわった背中はどれも、生きて動いている。
どの身体も、筋肉がもりあがり、背中をこすったり、頭をぬらして洗ったりしている。
ウーファーさんのような海外から来た、諸国の人もいるけれど、蒙古斑があろうがなかろうが、こうやってまじめに身体を洗い、髪を洗って、湯につかっている人たちと、わたしはつながっていた。
蒙古斑の子は、熱い湯が苦手だと見えて、なかなか湯につからず、足の先だけつけている。
男風呂は、だれも、なにも、しゃべらない。
男風呂というのは、なぜこうも、静かなんだろうか。
子どもも自然と、口を閉じて、静かに過ごしている。
老人たちは、すべてに無駄がない。
所作ふるまいのすべてが、一直線のゆるぎないもの。
かつて、その尻にあったであろう蒙古斑はすでに見えなくなり、ずっと以前は少年だったこの老人たちは、今や、銭湯の達人となった。
寸分の狂いもなく、時間の無駄もなく、最低限のスペースで、己の要求するすべての所作を、終えることができるのだ。見事な世界!
そのすべては、無言のまま貫かれ、最後に、勢いよく、パシャッと音がする。
これは、「終わったよ」という合図であり、告知であり、自分自身が汚していた場所の「清め」の「水流し」である。
そして・・・
カコーーンーー・・・
(桶をひっくり返して置く音)
ほうら、エコーを響かせて、聞こえてくるでしょう?
ここまでくると、芸術だという気がする。
これが、日本中の銭湯で、老人たちが行っている、銭湯の作法なのだ。
蒙古斑の少年も、わたしも、老人も、
みんな、同格。つながっている。
近所の温泉。
私は湯につかって、のんびりと来し方、行く末を案じておりました。
ふと目の前を見ると、小さな男の子が歩いている。
わたしはつい、見てしまう。
いや、ホントは、見る気ないですよ。
でも、目の前をつーっと通っていくのだから、ま、仕方なしに、見てしまう。
目を閉じない限り、見ざるをえない状況だからね。
すると、おしりのふくらみのあたりに、目をうばわれた。
そこになつかしい、「蒙古斑」を見たからであります。
たしか、自分自身も、同じところに蒙古斑があったんじゃないかな・・・。
わたしは目を閉じて、記憶を思い出そうとした。
彼のお尻の、左側の、ちょっと腰骨に近いような不思議な場所に、かすかに、斑がある。
たしか、わたしも、かつて同じようなところ、左側の腰のあたりに蒙古斑があったのではなかったか・・・。
蒙古斑は大和民族以外、モンゴロイド系の人、ネイティブアメリカンにもみられますね。
ところが世界的には知らない人もまだ居て、ヨーロッパの方には、
「これは児童虐待のあざの痕ではないか!?」
と不安に思う方もいらっしゃると聞いた。
ご安心ください。これは、母親から生まれる際に、すでにみられるものです。
さて、私は蒙古斑をあまりじろじろと見ていると変に思われてしまうから、出来る限りすみやかに目をとじて、瞑想に入った。
湯の音が聞こえる。
隣のおやじさんの、くしゃみが聞こえる。
そして、自分の心臓の音が聞こえる。
蒙古斑の彼は、たしかに、自分と縁のある存在だろう。
いつの頃からか、この大和の国、瑞穂の国、秋津の国に、人がにぎやかに住み始めた。
その時から、この子とわたしとは、縁ある間柄であるよう、運命づけられていたのではあるまいか。
こうやって同じ湯につかり、同じ時をすごすことに、なっていたのでは?
それも無理のない話、と私は思う。
少年と、わたしとは、同じ蒙古斑を通して、たしかに、つながっている。
裸の背中を、見渡してみた。
日帰り温泉の洗い場の、腰掛にすわった背中はどれも、生きて動いている。
どの身体も、筋肉がもりあがり、背中をこすったり、頭をぬらして洗ったりしている。
ウーファーさんのような海外から来た、諸国の人もいるけれど、蒙古斑があろうがなかろうが、こうやってまじめに身体を洗い、髪を洗って、湯につかっている人たちと、わたしはつながっていた。
蒙古斑の子は、熱い湯が苦手だと見えて、なかなか湯につからず、足の先だけつけている。
男風呂は、だれも、なにも、しゃべらない。
男風呂というのは、なぜこうも、静かなんだろうか。
子どもも自然と、口を閉じて、静かに過ごしている。
老人たちは、すべてに無駄がない。
所作ふるまいのすべてが、一直線のゆるぎないもの。
かつて、その尻にあったであろう蒙古斑はすでに見えなくなり、ずっと以前は少年だったこの老人たちは、今や、銭湯の達人となった。
寸分の狂いもなく、時間の無駄もなく、最低限のスペースで、己の要求するすべての所作を、終えることができるのだ。見事な世界!
そのすべては、無言のまま貫かれ、最後に、勢いよく、パシャッと音がする。
これは、「終わったよ」という合図であり、告知であり、自分自身が汚していた場所の「清め」の「水流し」である。
そして・・・
カコーーンーー・・・
(桶をひっくり返して置く音)
ほうら、エコーを響かせて、聞こえてくるでしょう?
ここまでくると、芸術だという気がする。
これが、日本中の銭湯で、老人たちが行っている、銭湯の作法なのだ。
蒙古斑の少年も、わたしも、老人も、
みんな、同格。つながっている。