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高校の図書館で、梅原猛さんの本を一時期、順に読んでいた。
その隣に並んでいたのが、梅棹 忠夫さんの本。

両方とも、名前が『梅』なので、゛うめ゛繋がりで面白がって読んでいるうち、双方に共通のもの、あるいは少しちがったものを感じ取り、一年くらい楽しんだ記憶がある。
梅原(うめはら)と梅棹(うめさお)。
この2人を、交互に読んだのは、今でも幸運だったと思う。

梅原は、(日本文化の根本思想とは)生きとし生けるものと共生する哲学であり、科学や科学技術も、そのような哲学に裏づけられなければならない、と書いた。
梅棹は、科学は人間の業だ、と言った。
科学が人間を破滅に追い込むことは自明(原発事故が象徴的)だが、それは人間の業(ごう)である、と。

高校生の私は悲観して、じゃあ人間は自分でも抱えきれない、把握しきれない科学の影響から破滅してしまうってことか、と泣きたくなった。
しかしこの哲学者、科学者のお二人は、そうでない、と。
暗黒の中に、光明がある、と。

それは、「共感」だ。
梅棹先生は、「英知」とも言っていました。

知的にならなければならない。
人は、『知的』だから、光明を見るのだ、と。

人間が暴走するかしないか、紙一重。
そこに、人間ならではの共感する力が発揮できれば、暴走を一歩前で食い止めることができる。

たしかに、原子力発電所も、いわゆる利権があり、運動があり、経済の影響があり、それでお給料をもらって暮らす人もいれば、反対運動もあって、非難もされる。

推進派と反対派の、両方がいる。両方の立場がある。
そこには、「話し合い」はない。
マネーの力でごり押しし、我慾、我利を押しつけ合う姿や、それに抵抗しようとする姿はあるが、話し合いになっていかない。

梅棹先生は、原子力発電についての広報誌の中で、
「原発はきちんとコントロールするから大丈夫」という電力会社の人に向かって、

「民族学をやってる立場からいうと、人間ってのは、案外とあてにならんのです。まともでないことをしでかすのが人間。原発は高度なコントロール下におけば大丈夫という。そうかもしらんが、そのコントロールをなんでかしらんが、間違ってしまうのも人間なのです

というようなことを言っている。

原発をあきらめきれないのと同じで、人間は科学をあきらめきれない。
それが、業だ。(麻薬みたいなものだね。やめられないのだもの。やめられないのが麻薬だから)

しかし、その業と向き合うときに、だれかが、社会が、共感してくれたら、救われる。
人間は、業を抱えるけれども、その業が、人の共感で、解消する(やめられる)ことがある。

人間が、科学と添い遂げられぬ悲しみ。

その気持ちに共感さえしてもらえば。

解消することも、ある。

共感、を、祈り、とよぶ人もいる。

震災直後、なんでも博士の荒俣宏さんが、東京の街の節電風景を見ながら、「人々の祈り」のようなものを感じ取った、と語っていたが、こういうことかも。

ついでに思い出したが、鶴見俊輔は、「真理とは方向感覚である」とのこと。

もうこれで、日本の哲学者が3人もいなくなったことになる。
梅原 猛(うめはら たけし、1925年3月20日 - 2019年1月12日)
梅棹 忠夫(うめさお ただお、1920年6月13日 - 2010年7月3日)
鶴見 俊輔(つるみ しゅんすけ、1922年6月25日 - 2015年7月 20日)

梅原たけ