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「ほら、あの子が使えるじゃん!」

他のクラスの先生から出てきた言葉だった。


月末の学芸会に向けて、学年の先生たちは大忙し。
それぞれのクラスの音楽の発表や、劇、発表会の練習が続いていた。
どのクラスも、なかなかいい。

『子どもたち、やるな!いいかもしれん!

私も思わず独り言が出るくらい。
これなら、というレベルに仕上がってきていた。
いい出来具合になってきたな、見に来てくれた人も、面白がってくれる、楽しんでくれるだろう、と思う。

学年の会合でも、当然その話題だ。
担任が集まって、学芸会に向けてのそれぞれのクラスの進捗状況を話しあおう、というので、心配事、気にかかることを出し合っていた。
わたしは、一つ、心配事を相談してみた。

家庭科の裁縫作品でつくった、「お弁当を包む袋」。どうしてもミシンがうまく使えず、ちっとも出来上がってこない子がいる。その子とマンツーマンで作業をし、できるだけ完成できるように頑張っているのだが・・・。
学校を休みがちである上に、スロースターター、スローな学びをする子なので、到底、発表会の展示作品としては間に合いそうもない、ということだった。

まあ、実際には、ほとんど心配はしていなかった。
他のクラスの先生方がいろいろと気軽に出しておられるので、自分も出してみたのだが、なんとか時間を捻出していけないことはないし、いざとなればおうちの人にも応援してもらえるかもしれない。教科書通りにミシンをかけることができなくても、一部はマジックテープでもいいや、いざとなりゃ、という気でいた。

ところが、その話題になるやいなや、この言葉が出てきたのである。

「先生、先生のクラスは、Mくんがいるでしょ!?Mくんが使えるじゃん!」



意味が分からなかった私に向かって、

「Mくんなら、器用だし他の子に教えることもできるよ、あの子ならそういうの、得手だから」



要するに、このスロースターターの、弁当包みが未完成の子の、お手伝いをさせたらいいではないか、というのだ。

わたしはそれを聞いて、はあ、なるほど。たしかにMくんは、器用で、ミシンも言われたとおりにやれる子だし、利発そうなタイプで、気軽にお手伝いもしてくれるだろう、と思った。

いい考えだし、明日、その話をMくんにしよう、とさえ思った。


ところで、この、「使える」発言は、保護者からすると、あまり気分のいいものではないだろう。

人を「使う」という上からの目線、視点には、使役する立場、使役される立場、という「差別的」意味合いを感じるからである。

無意識のうちに、先生の口から出てきた、「使える」という言葉は、逆にMくんに親しみを感じるからこそなのか(たしかに前学年での元担任の方だった)、Mくんの持ち味や能力を高く価値として認めるからこそなのか、そこにはいろんな意味が含まれると思う。

しかし、やはり、どこかそこに、微妙なものを感じてしまう。
「使う」「使わない」の前に、まず、Mくんの主体は尊重されているのか?
・・・という点で。

おそらく、この学校という社会、空間が、
○何でも言える、何でもやれるお互いの関係
というものであれば、「使う」という言葉があっても、なにも感じることはないのだろう。

○だれでも自分の好きなことを言って、だれにもとがめられたり、嫌悪に思われたりしない。
○だれでも自分の好きなことをやって、だれにもとがめられたり、嫌悪に思われたりしない。
○だれでも、なんの断りもなし、遠慮もなしに、ずけずけと好きなことをやっても、なにも責められない。

こういう学校社会であれば、逆に、

「使える」


と思ってもらえることは、豊かな喜びであり、人生の楽しみなんじゃなかろうか。
また頼む側も、純粋に、「Mくんに、ぜひ、やってほしいなあ!」とスッキリ頼めると思う。
まったくの作為的なものは無しで。
操作してやろう、○○させよう、というものは無しで。
「断られて当然」なのだからネ・・・。


つまり、崩れようのない、徹底的に一致したお互いの関係があれば、
「使える」とか「使えない」とか、そんなのどうでも・・・。


ところが、現状はそうでないから、「使える」という言葉に、ビミョーなものを感じるわけ。
あたかもそこに、Mくんの主体が無いかのような感じがして。

「あいつは、使える!」

この言葉が、なんも問題にならない社会が、イイね。




太陽は万人に
はるか雲海のかなたから・・・