御嶽山の噴火。

先日、写真を撮るチャンスがあった。
今回の災害から、子どもたちは学ぶべきことがたくさんある。
写真を撮りながら、
「想定と想定外の間をさぐる」授業の構想を立てた。

噴煙をあげている御嶽山をはるかに臨む


<想定外>をなくすためには、ありとあらゆる<想定>をしておかなければならない。
だが、それは無茶な話だ。
「想像力や情報収集力の弱さ」には、限界がある。
ビジネスの世界では、「想定内を増やせ」と、まことしやかに言われるが、その努力は果てが無い。
<想定>の範囲を最大に拡大せよ、と言われても・・・。


ただ単に、<想定>の量を増やせというだけ、ではない。
そもそも、<想定>とは何なのか。
きちんと、調べて、その正体をつかんでおくということ。
少なくとも、小学生高学年程度のうちに。
人生の初期において、<想定>とはそもそも何なのか、人間の<思考の癖>を知っておくべきだ。


人の思考の癖。
<想定>に、合うか、合わないか。
人は、そこに着目しがちだ。
そして、<想定>に合う事象を受け入れる一方で、<想定>に合わない事象は受け入れない傾向が強い。
<想定>に合わない事象は、考えたくないし、計算したくないし、できれば無視したい。
意識の中から、排除したくなる。それが人の心理。


以下は、<想定>されたマニュアルに掲載がないからと、<想定外>を無視した事例。
埼玉県、秩父市の自衛隊派遣要請を断る(日本経済新聞)
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG18027_Y4A210C1CC1000/

埼玉県秩父市が今年の2月、県に自衛隊の災害派遣要請を再三求めたにもかかわらず、県は「市街地除雪のための派遣は難しい」などと断っていた。
つまり、「除雪で自衛隊派遣なんて、聞いたことが無いし・・・」というわけね。
マニュアルや前例にないのだし、そんなこと考えたこともないから、考えたくないよ、と。
<想定>してあれば立ち上がるけど、<想定外>なら、めんどくさいからヤダ。
これも、人間の思考の癖か。



さて、御嶽山の噴火。

<想定外>であっても、瞬時に、大事なこととそうでないことが区別できる、という力。
想定できなかった、危機的状況が生まれても、すぐに、大事なことだけに反応し、要(肝心カナメ)となるもの、心臓部を守りきることのできる力。
そういう力をなんとよべばいいのだろう?


思い起こすのは、1986年11月の、三原山の噴火だ。
大噴火が起きたとき、島民1万人すべてを島外に脱出させる、前例のない作戦が敢行された。
噴火口が山すそまで広がったのは、実に500年ぶりのこと。
大島内には、大昔の後の噴火口が40以上存在する。その噴火口が一斉に火を噴いたら、島内に逃げる場所はなかった。追いつめられた島民は港に向かった。そこは、殺到した人々であふれ返っていた。もはや、島の中で避難場所を探している段階ではなかった。町長が決断する。
それは、全島民1万人を島の外に逃がすという空前の脱出作戦だった。
マニュアルなんてものは、ない。つまり、<想定>は無かった。
それを超えて、たった今、この生命の危機をどうするか、という状況。

↑ まずは、この資料を使う。


次は、今回の御嶽山の噴火で、やはり<想定外>の中で救助活動を行った山荘の方たちのこと。
御嶽山の山頂から北側に歩いて30分ほどのところにある山小屋「二ノ池本館」の支配人、小寺祐介さん(34)は、噴火直後に登山者を誘導しながら下山した。このときの対応が、冷静で落ち着いていた。多くの人が、小寺さんに励まされて無事に山頂から降りることができた。
小寺さんに、噴火の<想定>はなかったかもしれないが、すぐに判断ができた、現場対応ができた、ということ。いや、山小屋の支配人をしている人だ、噴火の想定はあったのだろう。ヘルメットもあった、というし・・・。


<想定>と<想定外>の間。
いろいろと考えさせられる。


最後は、子どもたち一人ひとりの、<想定>と<想定外>をしらべてみる。
たった今、巨大地震が起きた場合のこと。
天井の蛍光灯が割れて落ちてきたら、どうするか。何に気を付ける?
ドアが開かなくなったら、どうする?
友達が怪我をしたら、どうする?

戦争が起きて、小麦が輸入されなくなったら、どうする?
食料の値段が急騰したらどうする?

そんなこと、考えても仕方がない、という意見もあろう。
いくら考えても、きりがない。
しかしそれは、<想定外>を<想定>の範疇におさめよう、と無理をして頑張ることではないのだ。


<想定外>に当たっても、

自分には、なにが大事か

自分は何を願っているか

自分にとって、絶対にはずせない一点は、どこか

これらの判断ができるかどうか、という点については、どうだろう。

解は無数にある。
ただし、真の目的はたった一つだ。
そのたった一つきりの目的を、見失わない子に育てたい、ということなのだ。