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「これ、ふんちゅうなんで、触らない方がいいですよ」

ふんちゅう?

「糞を食べるやつです。要するに、ウンコにびっしり付くんです」


昆虫クラブに参加し、理科の世界に目を開かれた結果、そのまま中学・高校の生物科学クラブを経て、東京農大に進んでしまったAさんが、丁寧に教えてくれる。

Aさんは、大学の研究室から、たくさんのサンプルケース(透明なプラスチックの入れ物)を持参してきていて、特別な補虫網をつかい、やたらと獲物をとっていた。

その長い竿のような補虫網は、魚を釣り上げるための極太の釣竿でできている。
イルカでも釣り上げるんじゃないか、と思うほどの太い釣り竿を釣具店で購入し、それにアタッチメントを取り付けて、補虫網にしている。

うちの息子はその姿に完全にイカれてしまい、恥ずかしそうに

「ぼくにも持たせてください」


とお願いし、Aさんに持たせてもらっていたが、重すぎて、すぐに交代してもらっていた。

Aさんは、いわゆる糞虫や、オサムシのたぐいを集めて調べているらしく、その羽の色の個体変化を事細かに記録していた。




Aさんは、われわれ子どもたちの群団のすぐあとを追いながら、たまに子どもたちにも話しかけてくれいた。
こういう先輩がいることは、何より子どもたちのためになる。
Aさんがたまにつぶやく、ちょっとしたひと言が、なんというか、子どもたちの頭の上から、彼らの心の中に、沁みこんでいく感じがある。

「チョウのとまり方って、お上品でしょう。まっすぐに、姿勢よく、きれいに止まるからね。でもネ、蛾(が)は、ナナメだったり、サカサマだったり、身体が半分傾いていたり、羽もひろげてみたり閉じてみたり、いろいろするんだよね。」


こういうひと言のすぐあとに、やはり目の前を、ゴイシシジミという小さなチョウが、きれいにひらひらと舞い、うすむらさき色のアザミの花弁の上に、とてもスマートにとまるのを見ると、

「あ、ホントだ!きれいにとまってる!」


子どもたちも、妙に納得できるのであります。



子どもたちは、この大学生のお兄さんに向かって、いろいろと質問をした。

Aさんは飾らず、分からないことは、

「うん、知らないな。ごめんよ」

と言い、

「蝶の図鑑で調べような」

きちんと、どうやって、手を打つのかを示してくれていた。



一度、息子が、妙に黄色い、色折紙の切れ端のようなものを持ってきた。

「木にくっついていたけど、なんですか?」


そのとき、Aさんは、持参の特大補虫網をガサガサゆすっている最中だった。
それで、息子はAさんの代わりに、たまたま近くに居た、別の大人の人に質問した。

すると、そのおばちゃんは、

「うーん、なにかのサナギだよねえ。こんなにきれいな色してるんだから、生きてるよ、これ。チョウの図鑑に載っているかなあ」

隣でカメラを触りながら、同じくぶらぶら歩き進んでいた中学生が、それを聞きつけて、さっそく持参の蝶図鑑を見てくれる。

パラパラめくって見てくれたあと、

「うーん、繭の写真は少ないんですよねえ」

それで、なにか気が付いたらしく、

「もしかしたら、蛾の図鑑の方かもしれない」

と言い、別の中学生に声をかけてくれた。

声をかけられた方の中学生は、蛾も掲載されている、『蝶と蛾の図鑑』を持ってきていて、それで調べてくれた。

しかし、それでもよく分からない。

「やっぱり、イモムシ図鑑の方かも」

すると、いっしょに参加した小学校の子が、イモムシ図鑑を親のバッグから取り出し、親子でそろってみてくれた。

「イモムシ図鑑にも、繭が載っているからねえ」

しかし、なんだか、それでも、よく分からない。
繭は、掲載されているのと、いないのと、両方あった。


すると、最終的にやはり、Aさんが呼ばれてきた。

Aさんは、この黄色い、美しい繭を見ると、

「繭の図鑑がいいですね。調べるなら」

と、言った。

そして、カバンの中身をちらちら見て、

「繭のハンドブック、今日、持ってきてたかなあ・・・」



つまり、フィールドに出たら、

○蝶のハンドブック
○イモムシのハンドブック
○蛾のハンドブック
○繭のハンドブック


というふうに、どうやらたくさんのハンドブックがいるもののようであった。


結局、その折り紙の破片のような小さな黄色の繭が、いったい何の繭なのか、判明はしなかった。
しかし、わたしは、なんだかこの件だけで、この世界の奥深さが、よく分かったような気がした。

それにしても、分からない、という価値を、本当に大人から子ども、幅広い世代で、同時に味わうことになるなんて、まためったにない、得難い経験をした、と思う。

昆虫クラブのモットーは、

みんなで首をひねろうよ


なのであります。



ハンドブックで確かめながら・・・