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テレビ局は、「中立の立場」をとることに、なっている。
この、・・・ということになっている、というところが、情報リテラシーの肝心かなめの部分。
実は、・・・ということになっている、(けれども、そうなっていないこともある)、ということが、情報リテラシーの学習で、いちばん大事なのだ。
TBSというテレビ局が、「町の声」として、「いつもでる町の人」を使った。
映像を見ると、芸能人の事件の時になると、なんだか何回も出てくる女性の人がいて、その人が今回もインタビューに出ている。
そして、いわゆる適切な、・・・ということになっている、「町の声」を代弁していた。
これは、TBSの下請けのニュース制作会社が、表向きは、時間をかけて事実実態を報道する・・・ということにして、実際には、役者さんを雇ってセリフを言わせることにより、短時間で仕事を済ませていた、ということなのだが、それを、いかにも
「たった今、ふつうに街を行く人に、たまたまインタビューしたのです」
・・・ということにした、というあたりが、まあ、問題と言えば問題だ、ということで、問題視されている。
小学校でふつうに情報リテラシーの授業をするときは、最初に、
「WEBは、真実を語っている、ということになっている」
という命題を学習する。
それは同時に、
「・・・ということになっているが、その真偽のほどは定かではない」
ということである。
これを習うから、リテラシーの授業をやった後は、かなりの程度、人間不信、あるいは情報不信に陥る。
「先生、WEBってうそばっかりなの?」
というから、
「いや、本当、ということになっているだけで、本当かどうかは、だれにも分からないんだ。本当に本当かもしれないし、嘘かもしれないし、一部の人には本当かもしれないし、またちがう立場の人には嘘かもしれない」
と答えている。
すると、子どもたちは、とても不満そうである。
「なんで、本当のことを言わないの?」
なるほど、至極もっとも。
「いや、本当かもしれないしね。もっともっと調べてみないと分からない、ということもあるし。また、調べてみても分からないことがたくさんある。時間が経てば、本当になる場合もあれば、時間が経つと、うそになる場合もある。ほら、STAP細胞って、あったでしょう?」
ここまでいうと、子どもたちは
「・・・じゃ、もう、いいよ。なんか、情報リテラシーって、つまんないね」
と言う。
もう、情報にはつきあいきれない、ということらしい。
教育事業で有名な大手企業のベネッセが、顧客リストを漏らしてしまった、というので、お母さんが怒ってた、ということを、子どもが話していた。
「今朝、お母さんが超、怒ってたよ」
これも、インターネットの情報リテラシー授業でやったばかり。
ということで、ほとんどの教育委員会が、こういう事例を、情報リテラシーの授業で推進している。
別に、ベネッセが悪意をもっているわけでもなく、正常な顧客からの要望に応えてサービスを行うために、住所や電話番号などの情報が必須であり、悪意で集めたわけでもないから、ベネッセにとってはとても不幸な出来事だったと思う。
しかし、タイミングが悪すぎた。
「先生、授業でやったとおりになったね」
ということで、先日、同様の授業を受けtた子どもたちにとってみたら、ベネッセは悪意のあるWEBサイトと同列で見なされてしまっていた。わたしは、火消しに躍起になった。
「あのぅ、・・・べつに、ベネッセは悪意で集めていたわけじゃないからね。念のため言っておくけど!」
こういうことが連続で(というかほぼ日常的に)起きていることにより、子どもたちは、「情報」への警戒心をかなり高めている。
ところが、こんなもの、警戒心をいくら高めたって無駄である。
だから、「情報」は警戒しなきゃね
という結論では、なんの意味もない。
小学校での情報リテラシー学習の結論は、「警戒しなきゃ」のレベルを超えて、
「すべての情報には、発信者の願望が隠されているので、必ずその発言の最後に、・・・ちゅうことになっておる、という一文を入れて聞くこと」
ということなんだろう、と思う。
テレビの街角インタヴューは、たまたま街を歩いている人に、質問してる・・・ちゅうことに、なっておる。
個人情報は漏らされない・・・ちゅうことになっておる。
NHKは中立・・・ちゅうことになっておる。
中国が尖閣諸島を狙っている・・・ちゅうことになっておる。
北朝鮮は核開発をしている・・・ちゅうことになっておる。
こうしてみると、
・・・ちゅうことには、一応、なっているんだけれどネ・・・
という感覚が、アタマの中を、勝手によぎるように、なりますわね。
つまり、ほとんど、世の中のことは、分からない、ということが事実ではないだろうか。
・・・で、問題なのは、人間はみんな、「分かりたい病」にかかっていて、「分からない」という状態が、とても苦手だ、ということ。
みんな、目前の世界のことで、いっばい、いっばいだから、早く立場をハッキリさせないと、現象面のことで右往左往してしまう感じがあって、耐えられないのだろう。
しかし。
これからの時代は、「分からない」ということが平気だ、と言う人間がもっとも強いのではないか。
おそらく、この「分からないという感覚」をずっと長く保てる人が、もっとも客観的で、もっとも冷静で、もっとも多角的な視野を保てるだろうから。(情報無視とかじゃなくてね。無視もまた苦しいだろう)
情報弱者という言い方もあるが、情報収集量の多寡というより、すぐに全体像が分かった、あるいは自分には分かる能力がある、と思ってしまう思考癖のことだろうと思う。
※情報リテラシーの意味
「情報を活用する創造的能力」のことを指し、情報手段の特性の理解と目的に応じた適切な選択、情報の収集・判断・評価・発信の能力、情報および情報手段・情報技術の役割や、情報による影響に対する理解など、“情報の取り扱い”に関する広範囲な知識と能力のことをいう。」(By 情報マネジメント用語辞典)
テレビ局は、「中立の立場」をとることに、なっている。
この、・・・ということになっている、というところが、情報リテラシーの肝心かなめの部分。
実は、・・・ということになっている、(けれども、そうなっていないこともある)、ということが、情報リテラシーの学習で、いちばん大事なのだ。
TBSというテレビ局が、「町の声」として、「いつもでる町の人」を使った。
映像を見ると、芸能人の事件の時になると、なんだか何回も出てくる女性の人がいて、その人が今回もインタビューに出ている。
そして、いわゆる適切な、・・・ということになっている、「町の声」を代弁していた。
これは、TBSの下請けのニュース制作会社が、表向きは、時間をかけて事実実態を報道する・・・ということにして、実際には、役者さんを雇ってセリフを言わせることにより、短時間で仕事を済ませていた、ということなのだが、それを、いかにも
「たった今、ふつうに街を行く人に、たまたまインタビューしたのです」
・・・ということにした、というあたりが、まあ、問題と言えば問題だ、ということで、問題視されている。
小学校でふつうに情報リテラシーの授業をするときは、最初に、
「WEBは、真実を語っている、ということになっている」
という命題を学習する。
それは同時に、
「・・・ということになっているが、その真偽のほどは定かではない」
ということである。
これを習うから、リテラシーの授業をやった後は、かなりの程度、人間不信、あるいは情報不信に陥る。
「先生、WEBってうそばっかりなの?」
というから、
「いや、本当、ということになっているだけで、本当かどうかは、だれにも分からないんだ。本当に本当かもしれないし、嘘かもしれないし、一部の人には本当かもしれないし、またちがう立場の人には嘘かもしれない」
と答えている。
すると、子どもたちは、とても不満そうである。
「なんで、本当のことを言わないの?」
なるほど、至極もっとも。
「いや、本当かもしれないしね。もっともっと調べてみないと分からない、ということもあるし。また、調べてみても分からないことがたくさんある。時間が経てば、本当になる場合もあれば、時間が経つと、うそになる場合もある。ほら、STAP細胞って、あったでしょう?」
ここまでいうと、子どもたちは
「・・・じゃ、もう、いいよ。なんか、情報リテラシーって、つまんないね」
と言う。
もう、情報にはつきあいきれない、ということらしい。
教育事業で有名な大手企業のベネッセが、顧客リストを漏らしてしまった、というので、お母さんが怒ってた、ということを、子どもが話していた。
「今朝、お母さんが超、怒ってたよ」
これも、インターネットの情報リテラシー授業でやったばかり。
悪意のあるWEBサイトで、住所や電話番号を入力したら、ダイレクトメールや電話がたくさんかかってきて、迷惑をこうむることがあります。
ということで、ほとんどの教育委員会が、こういう事例を、情報リテラシーの授業で推進している。
別に、ベネッセが悪意をもっているわけでもなく、正常な顧客からの要望に応えてサービスを行うために、住所や電話番号などの情報が必須であり、悪意で集めたわけでもないから、ベネッセにとってはとても不幸な出来事だったと思う。
しかし、タイミングが悪すぎた。
「先生、授業でやったとおりになったね」
ということで、先日、同様の授業を受けtた子どもたちにとってみたら、ベネッセは悪意のあるWEBサイトと同列で見なされてしまっていた。わたしは、火消しに躍起になった。
「あのぅ、・・・べつに、ベネッセは悪意で集めていたわけじゃないからね。念のため言っておくけど!」
こういうことが連続で(というかほぼ日常的に)起きていることにより、子どもたちは、「情報」への警戒心をかなり高めている。
ところが、こんなもの、警戒心をいくら高めたって無駄である。
だから、「情報」は警戒しなきゃね
という結論では、なんの意味もない。
小学校での情報リテラシー学習の結論は、「警戒しなきゃ」のレベルを超えて、
「すべての情報には、発信者の願望が隠されているので、必ずその発言の最後に、・・・ちゅうことになっておる、という一文を入れて聞くこと」
ということなんだろう、と思う。
テレビの街角インタヴューは、たまたま街を歩いている人に、質問してる・・・ちゅうことに、なっておる。
個人情報は漏らされない・・・ちゅうことになっておる。
NHKは中立・・・ちゅうことになっておる。
中国が尖閣諸島を狙っている・・・ちゅうことになっておる。
北朝鮮は核開発をしている・・・ちゅうことになっておる。
こうしてみると、
・・・ちゅうことには、一応、なっているんだけれどネ・・・
という感覚が、アタマの中を、勝手によぎるように、なりますわね。
つまり、ほとんど、世の中のことは、分からない、ということが事実ではないだろうか。
・・・で、問題なのは、人間はみんな、「分かりたい病」にかかっていて、「分からない」という状態が、とても苦手だ、ということ。
みんな、目前の世界のことで、いっばい、いっばいだから、早く立場をハッキリさせないと、現象面のことで右往左往してしまう感じがあって、耐えられないのだろう。
しかし。
これからの時代は、「分からない」ということが平気だ、と言う人間がもっとも強いのではないか。
おそらく、この「分からないという感覚」をずっと長く保てる人が、もっとも客観的で、もっとも冷静で、もっとも多角的な視野を保てるだろうから。(情報無視とかじゃなくてね。無視もまた苦しいだろう)
情報弱者という言い方もあるが、情報収集量の多寡というより、すぐに全体像が分かった、あるいは自分には分かる能力がある、と思ってしまう思考癖のことだろうと思う。
※情報リテラシーの意味
「情報を活用する創造的能力」のことを指し、情報手段の特性の理解と目的に応じた適切な選択、情報の収集・判断・評価・発信の能力、情報および情報手段・情報技術の役割や、情報による影響に対する理解など、“情報の取り扱い”に関する広範囲な知識と能力のことをいう。」(By 情報マネジメント用語辞典)