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記事への反応がいろいろとあって、ひとつは、
「新間さん、子どもを叱っちゃだめなの?」
というもの。
わたしは、逆に、自分で
「叱らないでもいいですか?」
と、遠慮がちにつぶやいているイメージだったんだけど、
読まれている読者の中には、
「叱っちゃあ、いかんっつーことなのか?」
と、疑問符をもっておいでの方もいるようだ。
わたしは、叱るのはダメだから、叱らないようにしよう、というのは、たいへんに苦しいことだろう、と思う。
おそらく、そういうことでは、親も苦しい、子も苦しい、地獄だと思う。
けっして、そういう進み方はしないことだ。
地獄の苦しさを味わいながら、本当に、
と危惧する。
叱るのが良いとか、悪い、という価値判断を、けっしてしないことだ。
それは、思うだけでも、苦しい。
そんな苦しさを、味わうために、生まれてきたのではない。
子どもを育てることに、そんな苦しさがありえるはずがない。
それは、完全に、間違っている。
それは、完全に、狂っている。
正反対の進み方だろう、と思う。
まったく、「ありえない、あり方」だし、「進み方」であり、「行き方」なんだろう、と思います。
そうではなくて、
そもそも必要が無いので、気が付いたらもう何年も、
「叱る」
なんて、縁のない言葉でござんしたなあ、ということだろう、と思う。
叱るのが良いとか、叱るのが良くないとか、そういうことでは、決してない。
叱らないのが良い、とか、叱らないのは良くない、とか、そういうことでも、ぜったいに、無い。
ただ、結果として、
ということだろう、と思う。
最近、わたしはほとんど、子どもを褒めないで2年ほど過ぎているが、子どもは、
「先生が褒めてくれる」
という。
わたしは、褒めていないのに、褒められた、と思うようだ。
これは考えてみれば不思議なことだが、おそらく、
「あなたのことで、決して困らない」
という世界が、
「褒めてくれた」
というニュアンスに、近い(あるいは近く感じられる)から・・・、なのではないか??
と推測している。
子どもが身近にいる方で、同じような意見の方がいたら、ぜひご自身の味わっておられる、その感触を、わたしの感触と比べてどうか(同じかどうか)、教えていただきたい。
記事への反応がいろいろとあって、ひとつは、
「新間さん、子どもを叱っちゃだめなの?」
というもの。
わたしは、逆に、自分で
「叱らないでもいいですか?」
と、遠慮がちにつぶやいているイメージだったんだけど、
読まれている読者の中には、
「叱っちゃあ、いかんっつーことなのか?」
と、疑問符をもっておいでの方もいるようだ。
わたしは、叱るのはダメだから、叱らないようにしよう、というのは、たいへんに苦しいことだろう、と思う。
おそらく、そういうことでは、親も苦しい、子も苦しい、地獄だと思う。
けっして、そういう進み方はしないことだ。
地獄の苦しさを味わいながら、本当に、
身も心もすりへらし、
消耗してしまうのではないか、
と危惧する。
叱るのが良いとか、悪い、という価値判断を、けっしてしないことだ。
それは、思うだけでも、苦しい。
そんな苦しさを、味わうために、生まれてきたのではない。
子どもを育てることに、そんな苦しさがありえるはずがない。
それは、完全に、間違っている。
それは、完全に、狂っている。
正反対の進み方だろう、と思う。
まったく、「ありえない、あり方」だし、「進み方」であり、「行き方」なんだろう、と思います。
そうではなくて、
そもそも必要が無いので、気が付いたらもう何年も、
「叱る」
なんて、縁のない言葉でござんしたなあ、ということだろう、と思う。
叱るのが良いとか、叱るのが良くないとか、そういうことでは、決してない。
叱らないのが良い、とか、叱らないのは良くない、とか、そういうことでも、ぜったいに、無い。
ただ、結果として、
子どものすること、なすこと、言うこと、やること、すべての行為行動、すべてが、まったく、わたしを困らせない。
ということだろう、と思う。
最近、わたしはほとんど、子どもを褒めないで2年ほど過ぎているが、子どもは、
「先生が褒めてくれる」
という。
わたしは、褒めていないのに、褒められた、と思うようだ。
これは考えてみれば不思議なことだが、おそらく、
「あなたのことで、決して困らない」
という世界が、
「褒めてくれた」
というニュアンスに、近い(あるいは近く感じられる)から・・・、なのではないか??
と推測している。
子どもが身近にいる方で、同じような意見の方がいたら、ぜひご自身の味わっておられる、その感触を、わたしの感触と比べてどうか(同じかどうか)、教えていただきたい。